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ポンペイ
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ポンペイ 9月26日(日)
西暦79年の夏(8月24日)ヴェスヴィオ火山が大噴火を起こし。その灰の下に一瞬のうちに埋もれてしまったのがナポリから南に20キロに位置するポンペイです。それまでのポンペイは紀元前8世紀ごろから栄え、紀元前1世紀ローマ帝国の支配下で、商業都市、貴族の別荘地として繁栄しておりました。当時ポンペイの町は東西1km、南北800mで城壁に囲まれた小さな町であり、人口は1万人〜2万人ほどであったようです。この時の犠牲者は2000人程度と言われています。このポンペイの街や犠牲者は西暦79年に火山灰に埋まった後、長い間そのままになっていました。18世紀半ば、ナポリ王カルロス3世によって発掘され、厚い火山灰の下から現れた遺跡は、保存状態も良く、当時の戦車や荷車の轍(わだち)、横断歩道、水道管、公衆浴場、道路標識など当時を彷彿させるものが残されており、1997年にはユネスコ世界遺産に登録されています。
カプリ島を14半時ごろの船に乗り、ポンペイに着いたのは16時30分ごろでした。主な見所は60箇所もあり全てもを見るのには4時間かかるそうです。我々は1時間程度しか時間が無く、駆け足の見学になりました。
ヴェスヴィオ火山 ポンペイを囲む城壁 フォロ(公共広場)
ヴェスヴィオ火山 ポンペイを囲む城壁拡大写真マーク フォロ(公共広場)拡大写真マーク
大噴火を起こしてポンペイを埋めたヴェスヴィオ火山はナポリの南東に位置する、標高1,281mの火山、1880年には山麓から火口まで登山電車(フニコラーレ)が開通した。これを記念して作られた歌がナポリ民謡「フニクリ・フニクラ」である。この登山電車は1944年の噴火で破壊されてしまったそうです。
出口付近の城壁、ポンペイの町は周囲3kmの城壁で守られていたそうで、この付近はほとんど修復の手が入っていない発掘されたままの状態だそうです。
ポンペイの宗教や政治、経済活動の中心となっていた長方形の広場、その周りには神殿、役所、食品市場、浴場、商業・経済に関係のある建物などが並んでいる。写真奥には、ジュピターの神殿の柱が見えます。後方の山はヴェスヴィオ火山。トップ
居酒屋 街並みから遠くカプリ島を望む パン屋
居酒屋 街並みから遠くカプリ島を望む拡大写真マーク パン屋
カウンターには酒壷を置くための穴が開いている。街中にはこのような居酒屋が120軒もあったと言われています。 石臼とかまどが残っており、そのかまどの中からは炭化したパンの化石が発見されたそうです。小麦粉は奴隷や牛を使って臼を廻して挽いたそうです。トップ
轍のあと(上)・横断歩道(下) 水道管(左上)・水汲み場 食品市場・人型
轍のあと(上)・横断歩道(下) 水道管(左上)・水汲み場 食品市場・人型
戦車や荷馬車などの轍(わだち)のあとが残っています。道に水が流れた時、人が渡れるように敷石がところどころにおいてあります。
街の一角にあった共同の水汲み場。水道管は鉛で出来ているそうです。
食品市場の中にワインの壷や、その他の発掘品と一緒に人型が置いてあります。街を発掘した時に、灰に埋まった人の体が無くなり空洞となったものを見つけ、石膏を流し込んで作成したものです。当時の市民の苦悩の顔がハッキリと見られます。トップ
ファウヌスの家 HAVE(こんにちわ?) 公衆浴場
ファウヌスの家拡大写真マーク  HAVE(こんにちわ?) 公衆浴場
2000年前のポンペイで最も美しい邸宅であったと言われています。ファウヌスとは牧羊神という意味です。この家の水盤に牧羊神があったところから名付けられそうです。
ファウヌス家の前の道に残された「HAVE」と言う案内のモザイク、ガイドさんからは昔の案内標識と説明されました。
運動場が付属している設計になっています。脱衣場の棚は服を置くところです。浴室はいろんなタイプがあり、水風呂もありました。浴室の壁にはいろんな絵が描かれており、2重になっていて中を熱風が通って温めるようになっていたようです。天井は溝が彫ってあり、水滴が落ちない工夫もされていました。トップ


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