★長春 6月13日(水)〜14日(木) |
長春は吉林省の省都で、中国東北部の黄土台地のはずれにあり、町の中を松花江へと連なる伊通河が流れ比較的肥沃で、トウモロコシ、大豆の一大生産地帯です。1932年から1945年までは満州国の首都であり、新京と呼ばれました。市内には当時の建築物が多く残っています。現在は長春第一自動車製造工場と長春映画製作所があり、四季の違いがはっきりしており、穏やかで過ごしやすい気候のため「北国春城」と呼ばれています。市内は緑りが多く、また吉林大学を始め学校が多い街です。長春映画製作所は、偽満洲国によって1937年8月に建てられた国策会社「株式会社満州映画協会」(簡称満映)が基礎となっています。右の写真は列車から見た畑、夏にはトウモロコシ畑が延々と続く車窓となるそうです。 |
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関東軍司令部は満州国成立によって旅順から新京に移りました。建築様式は現代的ビルに日本の城をのせた「帝冠様式」で作られました。現在は中国共産党吉林省委員会が使用しています。 |
「満州国」国務院址は、日本の国会議事堂に模して造られたという。現在は大学の施設として使われています。国務院とは、満州国における行政機関、国政の最高機関でした。体制上は国家元首である溥儀の直属の組織でしが、実際の国務院には関東軍から送り込まれた日本人が要職を押さえていたため、溥儀であっても自由にできない組織でした。 |
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皇宮博物院入り口です。満州国皇帝溥儀は清国最後の皇帝(宣統帝)でした。満州国を建国するときに再び担ぎ出されました。新皇宮の建設も計画されましたが、それができるまでの仮皇宮が吉林・黒竜江省の塩の専売局の建物でした。しかし新皇宮完成前に敗戦となり満州国は崩壊したため、ここが満州国の皇宮となりました。 |
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長運門を入ると溥儀が政務をした勤民楼、生活の場であった、緝熙楼があります。この門には時計が最上部にありますが、9時10分を指して止まっています。日本が負けて溥儀や家族がこの建物を捨てて逃げた時間だそうです。 |
勤民楼は溥儀が政務を執ったり、典礼を行う場です。建物は瓦と煉瓦を合わせた構造をしています。勤明楼は中国式の作りで、家の中央に囲まれたように四角い庭があります(天井)。中央に木が一本植わっているますが、溥儀はよくこの庭を眺めていたといいわれています。 |
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同徳殿広場は東西に延びる長方形の吹き抜けの部屋で、下は赤い絨毯敷きです。西側は舞踏会が出来るようになっているが、溥儀は舞踏を好まなかったため、ここで舞踏会が行われることはありませんでした。 |
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勤民殿、溥儀が朝賀を受けたりする場所である。宝座には王族の印である「蘭花徽」がつけられ、床には鳳凰の図案が描かれた五色の絨毯が置かれています。 |
饗宴場、国家に祝い事があると、ここで家臣や招待客に食事を振る舞った。溥儀が中央に座り、客の身分に応じて席が決められました。部屋の反対側にはサク越しに楽団の部屋があり、饗宴中はバック音楽がながされました。 |
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溥儀の御用車が展示されており、その車と同じモデルカーがこのそばで販売されていました。 |
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緝熙楼は溥儀と皇后、妃の生活の場、及び寝殿です。元々は塩の倉庫と官庁で、木造と煉瓦を組み合わせた構造になっています。緝熙楼前には江沢民前国家主席による碑があり、「満州事変の日を忘れるな」という趣旨だそうです。 |
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溥儀の夫人婉容は、満州の上流貴族の娘に生まれ、西洋式の英才教育を受けて育ちました。才色兼備の誉れが高く、17歳のとき結婚し皇后となります。性格も人当たりも良く、誰からも愛される人間でしたが、溥儀との結婚生活は幸せなものではありませんでした。彼女の心はすさんでいき、アヘンを吸い始めるようになり、重度のアヘン中毒、精神病におかされた彼女は、冷たい官房に押し込められました。満州末期に溥儀と一緒に通化へ避難しましたが、翌
1946年、延吉で死亡しまた。享年40歳。 |