★旅立ち ★大連 ★東鶏冠山、203高地 水師営会見所跡 |
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★旅立ち 6月11日(月) |
友人との中国旅行は今回で3度目である。毎年4月の花見をかねて行なわれる営業部門のOB会の後で、今年は何処にしようかと酒を飲みながら話をした。かねてより一度は行ってみたいと思っていた中国東北部はどうかと提案、中国東北部は私の叔父や叔母が戦中から戦後にかけ苦労をした地域であり、「大地の子」や、「坂の上の雲」などにも書かれているとおり、日本の昭和史を語るにはなんとしても見ておきたい地域でした。成田から、大連までは3時間で着きます。11時25分に集合、13時25分出発、ツアーメンバーは当然のことお年寄りの多い25人、この地域に行こうとする方たちですから中国は何度か行かれている方で、多い方は9回とか言っていました。現地には時差1時間遅れ15時20分に到着予定です。 |
★大連 6月11日(月) | |||
大連市は東北三省及び内蒙古の海の玄関口で、中国を代表する貿易港の1つです。遼寧省の南部、遼東半島の南端に位置し、東は黄海、西は渤海に面し、北は広大な東北平原に続いています。日清戦争(1894〜95年)後にこの地を帝政ロシアが租借し、大連に東清鉄道の南の終着駅を建設してから大連が都市として発展を始まり、ロシア語で「遠方」を意味する「ダーリニー」という名が付けられました。その後の日露戦争(1904〜05年)では主戦場の1つとなり、特に現在大連市の管轄内である旅順にて繰り広げられた、日本の乃木希典大将率いる第三軍と、ロシアのステッセル司令官が指揮する旅順要塞守備軍との大激戦は、日本海海戦と並ぶ日露戦争の大きな戦いでした。日露戦争後は日本に譲渡され、ダーリニーにちなみ「大連」と改称されました。日本も満鉄本社や関東軍司令部、関東州一帯を統治する関東都督府を置き、大陸経営の政治・軍事的拠点としました。満州事変後、東北地域に満州国が成立すると、日本やその他諸外国からの物資を輸入する大連港と、満州の鉱工業の生産拠点だった奉天から伸びる鉄道の終着駅を抱える大連は、経済面でも満州の中心としてさかえました。 | |||
旧満鉄本社(現、大連鉄道有限公司)南満州鉄道株式会社は、日露戦争中の満州軍野戦鉄道提理部を母体に、日本政府が1906年に設立した半官半民の国策会社です。日露戦争の勝利により、ロシアから譲渡された東清鉄道の支線・長春〜大連間の鉄道施設・付属地と、日露戦争中に物資輸送のため建設した軽便鉄道安奉線(安東(現・丹東)〜奉天(現・瀋陽)間の鉄道)とその付属地の経営が当初の設置目的でした。旧満鉄紋章(現、大連鉄道紋章)満鉄のMの字にTは鉄路の断面をあらわしてい、ます。 |
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大連港は広い湾に面し、水深の深い良港です。港は帝政ロシアの建設に始まり第1埠頭と第2埠頭が完成、鉄道が入っていたため、日露戦争の時日本軍はここを兵站基地として使いました。日露戦争後、満鉄が第3埠頭をつくり、大連港は日本から満州への入り口として多くの人が利用しました。 |
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大連駅は東京上野駅とよく似た外観をしています。 |
★東鶏冠山、203高地 水師営会見所跡 6月12日(火) | |||||
日本軍は大本営の203高地攻略の督促にもかかわらず、当初東鶏冠山などの東北方面突破も固執していまた。東鶏冠山は旅順の東側を抑える山で、ロシヤはここに1900年から4年かけてコンクリートのトーチカをつくりました。この要塞は山の表面からは見えないように作られており、中には交通壕がはりめぐらされており、攻撃を受けると援軍が派遣できる体制も出来ているなど、堅固な要塞となっていたため、なかなか落ちませんでした。結局203高地陥落後、防御網が崩れたことを受けて、1904年12月18日に陥落しました。 203高地には中国の案内に「203高地は1904年日露戦争の主戦場の1つであった。日露両軍はこの高地を争奪するため殺しあっていた。その結果、ロシア軍は5000人以上、日本軍は一万人以上死傷した。戦後旧日本第三軍司令官である乃木希典は死亡将士を記念するため砲弾の残片から10.3m高さの銃弾のような形の塔を鋳造し、自ら「爾霊山」という名を書いた。これは日本軍国主義が外国を侵略した犯罪の証拠と耻辱柱となっている」と記されてました。日本人の日露戦争と、中国から見た日露戦争は当然のことですが違うのです。 |
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トーチカの外観と内部、セメントと砂利で作られており、鉄筋は使用されたいなかった。トーチカの壁には銃弾の後や、砲撃の穴があり戦いの激しさを物語っていました。 |
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203高地にある乃木司令官が「爾霊山」と書いた記念碑、この山を奪うのに多くの命が奪われたとは今は思えないほど、のんびりした地でした。この方向に旅順港がありますと説明を受けたが、もやがかかっていて見えませんでした。 |
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ステッセル将軍から贈られた白馬をつないだと言われているナツメの木、葉のない木は枯れており、次の木が植えられていました。何代目でしょうか? |