★東鶏冠山、203高地 水師営会見所跡 6月12日(火) |
日本軍は大本営の203高地攻略の督促にもかかわらず、当初東鶏冠山などの東北方面突破も固執していまた。東鶏冠山は旅順の東側を抑える山で、ロシヤはここに1900年から4年かけてコンクリートのトーチカをつくりました。この要塞は山の表面からは見えないように作られており、中には交通壕がはりめぐらされており、攻撃を受けると援軍が派遣できる体制も出来ているなど、堅固な要塞となっていたため、なかなか落ちませんでした。結局203高地陥落後、防御網が崩れたことを受けて、1904年12月18日に陥落しました。
203高地には中国の案内に「203高地は1904年日露戦争の主戦場の1つであった。日露両軍はこの高地を争奪するため殺しあっていた。その結果、ロシア軍は5000人以上、日本軍は一万人以上死傷した。戦後旧日本第三軍司令官である乃木希典は死亡将士を記念するため砲弾の残片から10.3m高さの銃弾のような形の塔を鋳造し、自ら「爾霊山」という名を書いた。これは日本軍国主義が外国を侵略した犯罪の証拠と耻辱柱となっている」と記されてました。日本人の日露戦争と、中国から見た日露戦争は当然のことですが違うのです。 |
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トーチカの外観と内部、セメントと砂利で作られており、鉄筋は使用されたいなかった。トーチカの壁には銃弾の後や、砲撃の穴があり戦いの激しさを物語っていました。 |
1904年12月15日にロシアのコンドラチェンコ少将が日本側の砲撃で死亡した場所に建てられた記念碑 |
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203高地にある乃木司令官が「爾霊山」と書いた記念碑、この山を奪うのに多くの命が奪われたとは今は思えないほど、のんびりした地でした。この方向に旅順港がありますと説明を受けたが、もやがかかっていて見えませんでした。 |
水師営会見所跡、旅順のロシア軍が降伏した後に行われた有名な乃木将軍とステッセル将軍との会見の場。もとは中国人の個人の家だったそうです。
椅子は日本側が高く、ロシア側は低くなっており、座った高さが同じになるようにしてあったようです。 |
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ステッセル将軍から贈られた白馬をつないだと言われているナツメの木、葉のない木は枯れており、次の木が植えられていました。何代目でしょうか? |