※縄文時代の日本:縄文文化に覆われ均質的
↓
前10c頃に稲作が持ち込まれることで3分される
1:続縄文文化(北海道・東北北部)
2:貝塚後期文化(沖縄諸島)
3:弥生文化(それ以外の地域)
↓
明治政府により再統一されるまで、日本には3つの異質な文化が共存していた
前1c頃 九州北部に原始的な連合政権が成立する
→列島内の他の地域に先駆けて、政治的社会を形成
57 倭の奴国、漢に朝貢する(「漢倭奴国王」の金印授かる)
→日本が初めて世界史に登場する
107 倭国の師升が後漢に使者を送る
170頃 十代で卑弥呼が邪馬台国(漢の外臣)を治め始める
178 倭国大乱(~83)
184頃 卑弥呼、二十代後半で30国の盟主に
189 黄巾賊の乱
200頃 吉備の首長が配下を従えて大和に移住し、纏向に広大な古代都市を起こしたか
→大和朝廷興る
首長霊信仰(首長は亡くなった後に力のある神になるとする信仰)が作られる
204 楽浪郡の南に帯方郡が置かれる
208 赤壁の戦い
220頃 纏向石塚古墳(最古の前方後円墳)に纏向を開いた首長を祭ったか
~春日(奈良市):春日氏の勢力圏~
~石上(天理市):物部氏の勢力圏~
~大和(三輪山麓一帯):豪族連合政権の指導者としての大王~
1 大和勢力、北の石上・春日と組んで奈良盆地東部を抑える
↓
2 4c末までに、平郡(へぐり)・葛城など奈良盆地西部も支配下に収め、全国制覇の足がかりとする
→現・奈良県あたりを「大和」と呼び始める
(大和の豪族が、自分達の守り神の上に「大和の国魂」をおいて拝んだことによる)
※「大和の国魂」:大和の土地の神(大物主神)
→大神神社でまつられるようになる
大王は、大嘗祭で神霊を呼び込んで「大和の国魂」と一体化することで、
人間の身体を持ちながら神の力を用いる「現人神」となるとされた
↓
3 勢力範囲拡大に対応して古墳の分布が広がる
→5c末までに、東北地方南部から九州中部までを支配下に組み込む
(地方豪族の自治を認めた形での支配)
↓
4 6c始めの継体の頃から、王家は自分達を
「唯一日本全国を支配する権利を持つ集団」と位置付け始める
527 磐井の乱
→大王の北九州支配強化に対し、北九州最大の豪族・筑紫国造磐井が挙兵し、
中央からの自立を図るも敗北する( 王家のもとに中央集権化が図られる第一歩)
王家、九州に糟屋屯倉(かすやのみやけ)という直轄領をおき、周辺豪族を監視することとした
→やがて、全国的に屯倉が置かれるようになり、
地方豪族が大王の支配から脱することができなくなる
5 王家の宗教的権威を高める政策が多く打ち出されるようになる(大王が全ての宗教を統轄)
・王家の守り神が、「大和の国魂」から「天照大神」に変えられる
~天照大神~
↑仕える
天神(あまつかみ・上位)
国神(くにつかみ・下位):土地を守る農耕神
・三輪山の神は大物主神(別名:大国主命)という国神で、各地方豪族がまつる農耕神は全て
大国主命が姿を変えて現れたものという設定となる
・中央の豪族は天神の子孫や王家から分かれた者達で、
地方豪族の多くは国神の子孫という設定となる
ex:蘇我氏:王家の分家
春日氏:王家の分家
大伴氏:天神の子孫
中臣氏:天神の子孫
→王家との距離に基づく豪族の序列が生じる
↓
王家が他の豪族をはるかに凌ぐ権威を獲得する
(聖徳太子による中央集権化が受け入れられる下地を形成)
6 ~中央~
天皇
↓
有力公卿の合議
↓
↓
~地方~
国司(中央から派遣)
↓
郡司(地方豪族)
230頃 矢塚古墳(↑前期纏向型古墳)が作られたか
234 諸葛亮孔明、死去
247頃 卑弥呼、死去
250~60頃 勝山古墳(↓後期纏向型古墳)、東田大塚古墳、ホケノ山古墳が
相次いで作られたか
265 魏滅亡、司馬炎が晋を建てる
266 台与、晋(西晋)に朝貢
3c後 石上が纏向よりも有力となり、石上の人々によって
巨大な西殿塚古墳(物部氏の首長か)が作られたか
280頃 纏向が石上の首長(物部氏か)を支配下に収め、その記念に箸墓古墳が作られたか
これと同時期に、王族の1人を祭った黒塚古墳が作られたか
280 西晋、呉を滅ぼし中国統一
4c初 柳本に大型古墳が作られたか
304 匈奴の劉淵が西晋から独立し、漢王を名乗る
313 高句麗が楽浪郡・帯方郡を滅ぼす(→倭が中国の先進文明を得られなくなる)
316 劉淵の子・劉聡が西晋を滅ぼす
→中国北部が約120年の五胡十六国時代に(南北朝時代)
邪馬台国、後楯を失い衰退につながる
317 司馬睿が南方に逃れ、東晋を建てる
4c 4世紀中に、大和発の前方後円墳が全国に広まっていく
→朝廷の支配の拡大を意味するか
具体的事情を知る手掛かりが残っていない「謎の4世紀」
→大胆な仮説が生じ易い ex:騎馬民族説(江上波夫)
王朝交代論(水野祐)
4c後 大和朝廷、朝鮮半島南部にまで勢力拡大したか
(好太王の碑文に、391年に始まった「倭との戦争」
(大和朝廷かは不明)の有様が記述されている)
※4世紀後半から5世紀にかけて、大和朝廷の東国進出が始まる
→鹿島神宮は、東国進出の拠点である鹿島の地に大和朝廷が創建した
政治的色彩の強い神社である(志田諄一)
5c初 纏向に古墳が作られなくなる(この頃、大和朝廷の本拠地が河内に移ったか)
420 宋成立
421 倭王・讃と宋の交流始まる(266年の『晋書』以来、155年振りに中国の文献に倭が登場→「空白の155年」)
439 北魏が中国北部を統一
478 10回目の朝貢
479 斉成立
6c初 神武東征伝説が創作される(通説)
502 梁成立
512 任那四県割譲事件
513 己汶・帯沙の地が百済に割譲される
→見返りとしての、日本への五経博士の派遣か
cf.高句麗の圧迫による百済遷都と、日本に援軍を求めるための贈物としての仏教伝来という理解
6c 北魏が力を増し、東方に圧力をかけ始める
→対抗すべく、大和朝廷や朝鮮半島で中央集権化の動きが見られる
527 磐井の乱
538 百済、熊津から泗沘に遷都する
仏教伝来(通説)
→百済の聖明王、仏像・経典を進献する
553 朝廷、百済に新任の知識人の派遣を要請する
562 任那日本府、新羅に滅ぼされる
→日本、朝鮮半島の権益を失う
↓
中国の政治秩序から離脱し、律令体制への脱皮を図る動きが生じる
大和王朝的部族制の流れをひく氏姓制度(拡大部族制)から律令国家へ脱皮する過渡期
「外臣」から「朝貢国」の立場に退く
(その流れの中で、「大王」から「天皇」という称号に変わる)
日本使節団、多数の金品を用意して中国に渡り、中国で律令の写本を入手して帰国する
(金品を払って写本を作らせたか、自ら写したか)
形式的には中国から独立・自主路線、実質的には中国に従属(遣唐使という名の朝貢使節団を派遣)
※欽明~舒明の頃に、中臣氏の祭官としての役割が確立したか
6c 百済の聖明王から欽明のもとに届けられた仏像と経典を巡り、
蘇我氏と物部氏が対立したとされる
大臣・蘇我稲目VS大連・物部尾輿(『日本書紀』)
※6世紀後半に、物部本宗が蘇我氏に敗れて没落したため、
中臣氏が物部氏に代わって鹿島神宮と結びついた(志田)
※中臣常磐、中臣本宗没落により中央に進み、「中臣氏」を賜ったか(青木和夫)
570 高麗使、来日
→以後、日本との関係は親密となる
※南の新羅・百済、北西の隋と対立していた高麗としては、日本との誼を結んでおきたかった(坂本)
574 聖徳太子、生誕
蘇我稲目―――――同母
↓
↓
―――――――――――――
↓ ↓
(いしひめ) (きんめい) ↓ ↓
石姫―――欽明 堅塩媛(きたしひめ)―――欽明―――小姉(おあね)君(堅塩同母妹)
↓ ↓ ↓
↓ ↓ ↓(あなほべのはしひと)
敏達(びだつ・兄) 用明(弟)―――穴穂部間人
↓
↓
――――――――――――――――
↓ ↓ ↓ ↓
↓ ↓ ↓ ↓
聖徳太子 来目(くめ) 殖栗(えくり) 茨田(まんだ)
※父母の母が同母姉妹という濃密な近親結婚
※来目:602年、新羅征討将軍に任じられるも、翌603年病没
※蘇我稲目、2人の娘を天皇に送り込み、勢力伸張している(cf.物部・大伴)
575
576
577 北周が北斉を併合
582 司馬達止、来日
→高市郡坂田原に草堂を結び(後に建て替えられて坂田寺(金剛寺)と呼ばれる)、
「大唐神」と呼ばれる
587 用明崩御
蘇我馬子、穴穂部皇子・物部守屋を殺害する
聖徳太子、紫雲山頂法寺(六角堂)を建立する
588
589 隋が陳を滅ぼし中国統一
592
東漢直駒、崇峻を殺害する
蘇我馬子、東漢直駒を殺害する
593 推古「天皇」即位
→厩戸皇子(聖徳太子)、摂政となる
中央集権化推進
※推古期に、佐伯鞍職(くらもと)が厳島神社を草創したとの伝承あり
→実際は、さらに古いものか(高野賢彦)
※秦氏:秦の始皇帝12世の孫・功満王・融通王が、仲哀・応神期に相次いで帰化し、
普洞王が仁徳期に波多姓を賜る。推古期に秦河勝が山城国葛野(かどの)郡を領し、
太秦の地が拓けてくる。末裔に惟宗らがあり、畿内を中心に、常陸・下野・筑紫等に分布する
※長宗我部氏:秦河勝の後裔が信濃国更級(さらしな)郡小谷郷(更埴市稲荷山町付近)に入り、
この地の稲荷山に治田(はだ)神社(秦神社・稲荷大明神)を祭って本拠地とし、
平安末期に至る(諸説あり)。
26世の孫・能俊(よしとし)が承久の乱の後に土佐国長岡郡宗部(そがべ)郷に入る(通説)。
後に岡豊(おこう)城(江村郷岡豊山)を本拠とする。庶流に、江村・久礼田・広井・中島・野田
・大黒・上村・中野らがあり、本宗・長宗我部氏の藩屏として発展していく。
cf.秦河勝の後裔・能俊が土佐の曾我部に入り曾我部姓を名乗り、源平の合戦の際、源希義
(まれよし・頼朝弟で、平治の乱後に土佐国介良(けら)庄(高知市介良)に流されていた)の挙兵に加わったとする説
(『南海通記』)
※2つの宗我部氏
・長岡郡宗我部氏:長宗我部氏
・香美(かがみ)郡宗我部氏:香宗我部氏
→中原秋家(甲斐)が、香美郡宗我部・深淵両郷(香美郡野市町)の地頭に捕せられ、
1193年に甲斐から移ったのに始まる(『香宗我部家伝証文』)
596 法興寺(飛鳥寺)、建立
→蘇我氏の氏寺
600 新羅に出兵する
601 聖徳太子、斑鳩宮を造る
602 高麗僧・僧隆、雲聡、来朝する
603 冠位十二階を制定する
新羅征討、中止
604
聖徳太子、十七条憲法を発布する
605
高麗の大興王、仏像造顕のため、日本に黄金を寄進する
606
司馬止利、法興寺(飛鳥寺・蘇我氏の氏寺)の大仏造営
607
遣隋使として小野妹子らを派遣する
※この時、小野妹子ら、箸と匙による食事作法による歓待を受ける(当時の日本は手食)
608
4月 小野妹子、帰国
※この時、百済で煬帝からの国書を奪われたとされる
・妹子に託した書が無礼であったため、妹子が掠め取られたと作り事をしたとする説(本居宣長)
・国書紛失の事実はなく、『日本書紀』の編者またはその原史料の筆者の創作とする説(坂本太郎)
6/15 裴世清一行、隋の宣撫使として来日し、江口(淀川河口)に入る
8/3 裴世清一行、飛鳥に入京する
8/12 裴世清、推古に召される
8/16 裴世清、饗応される
※小野妹子らが隋で経験した箸食文化を急いで真似て、箸食の方式で饗応したとされる
→宮中で初めて箸食作法による歓待が催される(日本の箸食文化の始まり)
9月 裴世清一行、難波から帰国の途につく
→この時、小野妹子らを再度隋に派遣する
(吸収した知識が、後の大化の改新の原動力に)
※この時、学生・学問僧の8人が同行している(『日本書紀』)
→全員が帰化系の氏族(7人は漢人(あやひと)系)
609
9月 小野妹子、帰国
※大徳の冠は、2度の入隋の功績によるものか(坂本)
610
新羅使、来朝(『日本書紀』)
※北の高句麗、西の百済と敵対していた新羅が、日本との誼を結ぼうとしたか(坂本)
※新羅・日本の国交が円滑になったことは「間違いない」(坂本)
※610年頃から、聖徳太子の政治的活動が少なくなる
611
8月 新羅・任那使、朝貢のため来朝する
この年、隋、大軍で高句麗を攻めるも撃退される
612
613
614
6月 犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)、遣隋使として派遣される
中臣鎌足、生まれる
中臣御食子(なかとみのみけこ)――――――――
※宮廷の祭司の家柄 ↓
渡来人末裔説もあり ↓
鎌足
※唐から帰国した南淵請安(みなぶちのしょうあん)のもとで中大兄皇子・蘇我入鹿らとともに学ぶ
『六韜(りくとう)』等を熱心に学んだとされる
※中国の謀略の書:『六韜』・『三略(さんりゃく)』など
※鎌足生誕地
・大和藤原説(『大織冠伝』)
・鹿島説(『大鏡』)
615
9月 犬上御田鍬、帰国
※新文化の請来と対等外交を意図したものか(坂本)
また、高麗遠征に失敗した唐の実情を探らせる意味もあったか
616
新羅使、朝貢のため来朝する
617
618
李淵(りえん)、唐建国
※懸案だった高句麗遠征のために、背後の新羅と接近する。日本は百済と結び、
朝鮮半島の足がかりとする。
・日本 ・唐
・百済 VS ・新羅
8月 高麗使、来朝
※数年前の隋軍「30万」(一種の決まり文句の感あり(坂本))の侵略を撃退したことを
誇示した上で、俘虜と武器を貢いでいる
→日本の好意の持続を希求する意味合いか(坂本)
619
620
聖徳太子、蘇我馬子とともに、歴史編修を始める(『日本書紀』)
※そのような事実はないとするのは津田
※蘇我蝦夷、645年に珍宝とともに『天皇記』・『国記』を焼く
→船史恵尺が『国記』を持ち出して中大兄皇子に献上する
621
新羅使、朝貢のため来朝する
622
2月 聖徳太子死去
623
新羅征討の議が起こり、新羅との親善関係にひびが入る
※聖徳太子死去の影響か(坂本)
※坂本太郎は、聖徳太子生存中は対外政策に分裂はなかったとする
cf.田村円澄は、聖徳太子は親新羅的で、蘇我氏は親百済的であったとする(『聖徳太子』)
624 僧官の制が設けられる
625
626
蘇我馬子死去
627
628
629
舒明の御世(629~641)に、城崎温泉でコウノトリが傷を癒したとの伝承あり
※城崎温泉の三恩人
・香川修徳:新湯(現・一の湯)を日本一と書く(『一本堂薬選』)
・柴野栗山(りつざん・1736~1807)):儒学者で、「玄武洞」の命名者
・志賀直哉:『城の崎にて』
※香川の影響で、「上方の温泉といえば秀吉の有馬」から、「湯山(有馬)・湯嶋(城崎)並立状態」に
※藤浪剛:レントゲンの父、柘植龍洲を最大級に評価する
※西川義方(よしかた):温泉医学の啓蒙に尽力
630
8月 第1回遣唐使派遣(犬上御田鍬・薬師恵日ら)
631
632
高表仁、唐の宣撫使として来日する
633
634
635
636
637
638
639
舒明、百済寺建立(初めて皇室が建てた寺)
→後に天武により飛鳥に移され、名も高市大寺→大官大寺→大安寺と変わる
640
唐から高向玄理・南淵請安らが帰国する
※7c中頃、大王を宮廷のまとめ役にとどまらず、
中国の皇帝に倣って専制的な支配者にしようとする動きが起こる
(祭司としての性格を弱め、軍事上・経済上のトップに位置づける)
→中大兄皇子が主導して、大化の改新に
↓
やがて、専制化方針が宮廷の理解を得られなくなる
↓
壬申の乱の争点の1つに、「今後の王家の在り方」が提起される
↓
天武、王家の在り方を元の方向へ修正する
(再び最高位の祭司の立場で君臨する方向性)
↓
天武朝で、国家的祭祀の整備が進められる
ex:祈年祭
大祓
鎮火祭
広瀬神社・龍田神社の祭り
鎮護国家の考え方が確立
641
642
7/22 百済の使者を饗応するため、健児(こんでい)を招集して相撲を催す
→相撲の歴史の始まり
643
644
1月 飛鳥寺西の広場で蹴鞠の会が催される(『日本書紀』皇極三年正月一日)
※槻(つき)の木の下で中大兄皇子の靴を鎌足が差し出して接近したとされる
(中国にも同様の伝承あり(田辺昭三)
※「打○」を「蹴鞠」と解した上で(「打毬」ではなくの意)、我が国の蹴鞠記録の初見とされることが多い
645 大化の改新
→中大兄皇子・中臣鎌足ら、蘇我入鹿を殺害する
↓
翌日、蘇我蝦夷を焼き討ちし、蝦夷は炎の中で自害したとされる
・公地公民制
・租庸調制
・国郡司制
班田制:当初は6年一班
→12年一班~不定期~9世紀には実施されなくなった
※大化の改新は、7世紀前半の東アジア情勢(唐建国の圧迫による朝鮮半島での連鎖的政変)を背景に、
皇位継承問題を契機として、起こるべくして起こった(青木和夫)
※①改新の詔をはじめとする『日本書紀』の改新関係記事は、真偽の吟味なくして使えなくなった
②改新肯定説・否定説、いずれによっても、改新論は1つの仮説としてしか展開できなくなった
③大化の改新の歴史的意義が相対的に低下した
④律令国家形成に占める天智・天武・持統朝の意義が高まった (原秀三郎)
※原秀三郎による、「大化の改新5要件」
①645年6月14日、蘇我氏滅亡直後に孝徳天皇が即位した
→実際は649年即位とする
②6月19日、年号を「大化」と改めた
→:持統朝の「大化」年号の転用とする
③12月9日、都を難波長柄豊碕(なにわながらとよさき)に移した
→白雉元年(650年)10月に土地選定が完了し、
同2年12月30日に難波長柄豊碕に移り、同3年9月に豊碕宮が完成した
④大化2年1月1日、改新の詔4条が発せられ、その第1条で公地公民の原則が示された
→部民制の廃止は664年
⑤大化の5年間に、主要な改革がほぼ完了した、つまり、改新は5年間で終了した
→孝徳朝は、白雉の5年間とみるべき
↓
その実態は「白雉惟新(はくちいしん)」ともいうべきものであった(原秀三郎)
→白雉惟新説からは、藤原鎌足の主要な功績は蘇我入鹿の殺害と不比等を生んだことにとどまり、
政治家としての業績に疑問を投げかけるとともに、
藤原氏祖として過大評価される傾向を戒めることになる
通説的理解では孝徳政治は中大兄皇子の傀儡とされるが、
鎌足は政治に関われるような人物ではなかったとする
6/19 樹下の誓約
この年、唐、高句麗討伐の兵を動かす
※阿倍比羅夫の北航は、唐の動き→靺鞨(まっかつ)の動乱→鈴谷式土器人の南下→
その南の江別式土器人の本州北部への移動(北方考古学)を踏まえ、蝦夷やその北の
粛○人の動向に備えるための偵察行動であった(七宮)
646
改新の詔発布される
647
七色十三階の冠位を制定する
648
649
650
651
652
653
5月 改新後初の遣唐使
→改新前と顔ぶれに変化
・倭人貴族の中からも有識者が育ち始める
・かつて排仏派だった中臣氏が学問僧を2人派遣:中臣鎌足の子・定恵、中臣許米の子・安達
654
655
皇極上皇、重祚して斉明となる
656
657
658
7月 蝦夷約2百人が朝貢してくる
※この時の入朝者のうち2人の男女が、翌年渡唐することに
有馬皇子の変
阿倍比羅夫、蝦夷を討つ
659
秋 遣唐使が2人の男女の蝦夷を伴い、唐の高宗に謁見する
660
3月 阿倍比羅夫、2百艘の船師(ふないくさ)を率いて粛慎(みしはせ)の国を目指す(『日本書紀』)
※粛慎人ら、比羅夫らの平和交渉を拒否する
→比羅夫、妥協の余地なしと考え、粛慎人を討ち取り凱旋する(七宮)
※津軽半島~北海道渡嶋半島~石狩川河口付近での出来事と推定されている(七宮)
7月 唐・新羅、百済を滅ぼす
→義慈王、捕えられる
※唐、高句麗と結ぶ百済を新羅とともに先に攻めた
→唐・新羅VS高句麗・百済・倭国という構図に
10月 百済の遺臣、百済再興のため日本に援けを求めてくる
→①軍隊の派遣
②王子・余豊璋(ほうしょう)の送還
661
斉明、百済救援のため九州に赴く
662
5月 豊璋を百済に派遣する
8月 倭国、前衛将軍・阿曇(あずみの)比羅夫、後軍水軍・阿倍比羅夫らに、
百済を救援させる(七宮)
663
3月 日本軍、援軍として2万7千を派遣する
8/27 白村江の戦い(~28)
→豊璋、高句麗に逃れる
※坂本太郎は、白村江の敗戦後を、「改新以前への回帰」という反動的な時期と理解する
※戦後、日本も唐のような律令国家に変わらなければならないと考えたか(青木和夫)
※百済滅亡が決定的に
※以後、日本は唐・新羅の占領下におかれたとの説も(『よみがえる湖都』(田辺昭三))
9月 日本軍、多くの百済遺民を抱えて帰国する
664
劉仁願(りゅうじんがん・唐の百済鎮将)、日本に郭務そう(かくむそう)を使者として派遣する
※田辺昭三は、唐・新羅による占領の証拠の1つとする
対馬・壱岐・筑前に防人と烽を置き、筑前に水城を築く
新冠位二十六階を制定する
→氏上・民部・家部を定める
665
劉徳高(りゅうとくこう)、唐の使者として来日する
666
司馬法聡(ほうそう)、唐の使者として来日する
667
天智、近江大津京に遷都
※遷都の理由
・防衛に適した大津に都を移した(通説)
・朝鮮系渡来人が集住している近江に都を移して朝廷を監視するという占領軍の意思により、
強制的に遷都がなされた(田辺昭三)
高安城(大和・河内国境)・屋島城(讃岐)・金田城(対馬)を築く
※築城の理由
・唐・新羅の侵略に備えるため(通説)
・北九州に兵站基地を確保し、航路である瀬戸内海沿いにも山城を配置することで、
占領軍が日本に対して軍事的圧力をかけた(田辺昭三)
668
高句麗滅亡
→統一新羅成立
669
中臣鎌足、死去
※鎌足墓:阿武山(あぶやま)古墳が鎌足の墓とされる(梅原猛)
670
庚午年籍作成
→初の全国的戸籍
※ある家族を他の家族と区別するために「姓」が必要となる
4/30 法隆寺焼失
671
大友皇子、太政大臣となる
大海人皇子、吉野に引退する
この年、新羅、朝鮮半島を統一する
※倭、百済の亡命貴族を受け入れながら、「倭」から「日本」へ転換し始める
672
6/24 大海人皇子、吉野を発つ
壬申の乱
※天武、壬申の乱後、皇親を皇室の藩屏とする政治(皇親政治)を目指すも、
実際には、皇親は皇位継承を妨げる存在とされ、政治的・経済的に排除された
(長屋王の変以後、皇親勢力は後退の一途をたどる)
↓
皇族賜姓制が皇親勢力の退潮に拍車をかける(貴族階級内での二極化)
↓
王族にあって、文雅の道に逃れる者
↓他方、
王族が地方民と結びつき、在地勢力との婚姻・国衙の在庁官人となる等により
土着していくという流れが生まれる(象徴的な人物として、在原業平)
→東国で顕著であり、やがて武士団の形成に発展していく
※壬申の乱で、船史恵尺(ふなのふひとえさか)がかつて蘇我邸から持ち出した
『国記』も焼失したか(青木和夫)
※右大臣・中臣連金(なかとみのむらじくがね)、極刑に処せられる
※土師連真敷(ましき)・土師連馬手(うまて)、壬申の乱で天武側として軍功をあげたと思われる
673
大海人皇子、即位
→天武
※一般には、天武朝で「天皇」の称号が用いられ始めたとされる
また、この頃に「大和の国魂」も単に「みたま」と呼ばれるようになる
※田辺昭三は、天武・持統の頃を通説のように「皇親政治の確立期」と捉えず、
占領軍が皇親をたてた傀儡政権と理解する
674
675
1月 飛鳥浄御原宮で「御薪の宴」の初見
2/9 天武、歌人・伎人を貢上させる
4月 天武、諸芸に才能ある者に禄を給す
この年、諸氏の部曲を廃止する
676
677
678
679
680
681
3月 天武、「帝紀及び上古の諸事」を記すよう命じる(『日本書紀』編纂開始)
※・大化の改新以前の記録:蘇我邸で焼失
・大化の改新以後の記録:壬申の乱で焼失
→古老の記憶や年代記(ある天皇の一世代を振り返ってまとめたもの)に頼らざるを得ない状況での編纂
この年、飛鳥浄御原令の作成を開始する
※天武、681年から684年頃までの間に、稗田阿礼に歴史書編纂を命じたか
682
683
684
八色の姓を定める
685
3月 天武、仏像・経典を置き礼拝供養するよう命じる
9月 天武、歌男・歌女・笛吹きに対して、子孫に技術を伝授するよう命じる
この年、位階六十階を定める
686
1月 天武、歌人らに禄や衣服を賜る
この年、天武、崩御
この年、大津皇子、殺害される
687
688
689
飛鳥浄御原令22巻を諸司に分つ
690
持統、即位
藤原京、造営着手
691
18の氏に先祖の墓記を上進させる
692
5/7条 『日本書紀』
→「御浦郡」の初見
※「赤鳥」:支配者が善政をしいた際に、天がそれを誉めて現れる鳥
693
694
藤原京遷都(~710)
※大和三山:畝傍山・耳成山・天香久山
695
696
「肥後国」初見
697
8月 持統、孫の軽皇子(文武)に譲位し、太上天皇となる
→「譲位→太上天皇(上皇)」の慣行が始まる
↓
皇権の弱体化をもたらす結果に
生前譲位の常態化により天皇の在位年齢が低下
↓
若年の天皇の補完の必要性が生じる
→父の立場で補完:院政
外祖父の立場で補完:摂政・関白(これに従たるものとして、母による女院政 ex:藤壺)
(天皇が母方の実家で幼少期を過ごす婚姻習俗が、外祖父の政治的発言権を高めたか)
698
この年、「藤原朝臣」が不比等の子孫に限定され、その他は「中臣」に戻される
「筑前国」・「豊後国」・「日向国」初見
699
700
刑部親王・藤原不比等ら、大宝律令の選定に着手する
701
春 大宝律令完成(総裁:刑部(おさかべ)親王)
→中国・唐に倣いつつ、大和朝廷以来の慣行をも踏まえたもの
この時点で、「日本」という国号が採用されていたことが確認できる
大学・国学を置く
※日本に根付かなかったもの
・科挙(門地に関わらず優秀な人材を登用)
→氏姓制度が根強く残る(官職が特定の氏姓に固定し・家業化してしまった)
・宦官(権力への血縁的な介入を排除して皇帝の独裁に奉仕させる)
※「日本」の国号
→倭国が小国の日の本を合併し、その国号を名乗った(『新唐書』(中国史書))
農耕民の弥生文化圏の拡大と、非農耕の縄文狩猟文化圏の縮小(七宮)
この年、藤原不比等、正三位大納言
702
「豊前国」初見
この年までに、「薩摩国」が日向国から分轄される
703
704
「慶雲」に改元
705
706
7月 藤原武智麻呂、大学助から大学頭(かみ)となる
→自ら大学で学生に詩書礼易を講義し、指導にあたる
この年、藤原仲麻呂、南家・武智麻呂の次男として生まれる
707
6月 文武、崩御
※文武、崩御直前に藤原不比等に食封(じきふ)5千戸を与えるも(太政大臣・高市(たけち)親王以来の異例の栄典)、
不比等はこれを固辞し、2千戸にとどまったとされる
7月 元明、即位
「筑後国」初見
708
1月 「和銅」に改元
1月 藤原不比等、正二位
2月 元明の詔で、平城京遷都が正式に決定する
3月 藤原不比等、右大臣に任じられ、政界における地位を不動のものとする
7月 和同開珎を鋳造する
11月 元明即位の大嘗会(だいじょうえ)の宴が開かれる
→県犬養宿禰三千代(あがたいぬかいのすくねみちよ・不比等妻)、橘宿禰の氏姓を与えられる
※県犬養宿禰三千代:従四位下・県犬養宿禰東人(あずまんど)女で、はじめ美努(みぬ)王(敏達曾孫)に嫁し、
葛城(かつらぎ)王・佐為(さい)王・牟漏(むろ)女王の三児をもうけるも、その後離別して不比等に再嫁する
この年、藤原武智麻呂、図書頭(ずしょのかみ)に就任する
→壬申の乱で散逸した官書を探して書写し、その補充に努めることに
709
3月 藤原巨勢麻呂、越後・陸奥の蝦夷を討つ
710
3月 平城京遷都
8月 染屋時忠、神輿山の上に甘縄神明宮を、山麓に円徳寺を建立する
711
12月詔 「親王以下豪強の家が山野を占有することを厳禁する。ただし、
空閑地(未墾地)を墾開すべき者あらば、よろしく国司を経て然る後官の処分を許せ」
この年、土師馬手(従四位下)、死去
→土師氏、官人貴族としての地位を確立する
712
太安万侶、古事記を撰定する
※孝元(8代)の第1皇子・大彦(おおびこ)命、四道将軍の1人として高志道(こしのみち・越の国:北陸)を平定
→阿倍臣・膳臣・狭々城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣の祖とされる
※神武東征軍の最初の上陸地:河内国日下(ひのもと あるいは、くさか 現・東大坂市日下町)
※「日下(くさか)の蔘津(たでつ)」(『古事記』)
※孔舎衛(くさか)坂で、長髄彦が神武軍を激しく迎え撃つ
※日下:「日下(ひのもと)の草香(くさか)」と用いられていたことから、「くさか」とも読まれるようになった
※日下の草香:太陽信仰の地 日下の孔舎衛坂を登れば草香山で、別名・ニギハヤヒ山ともいう
神武軍が勝てなかったのは、太陽に向かって戦ったから
→熊野へ迂回し、太陽を背にすることで、ようやく勝つことができた(七宮)
※狭々城山君:狭々城山(観音寺山)を本拠とした豪族で、「酒器(ささき)」に由来する
→後に、宇多源氏・佐々木氏(「御陵(みささぎ)」に由来)が地盤を継承する
「沙沙貴氏」・「本佐々木氏」等と称するも、次第に宇多源氏佐々木氏に圧迫同化されていく
↓すなわち、
佐々木成綱が平治の乱で平氏に与し、後の源平の合戦の際、平氏都落ちの後に源氏に鞍替えする。
成綱の子・俊綱、一の谷の合戦で平通盛を討ち取るも、父の経歴等により佐々木庄の本領安堵に
とどまり、沙沙貴山公の流れが冷遇される。頼朝の佐々木定綱への肩入れにより、
やがて沙沙貴神社の神官の地位に甘んじることとなる。
cf.宇多源氏・佐々木氏
宇多―――
↓
敦実親王(第8皇子)―――
↓
雅信――― ※雅信、源姓を賜って宇多源氏祖となる
成頼(雅信孫)――― ※成頼、守護代として(?)初めて近江に下向する
↓
子―――
↓
経方――― ※経方、佐々木庄の下司職となって小脇に住み、
↓ 初めて「佐々木氏」を称する
子―――奥州・安倍宗任女
↓
秀義―――宇都宮宗円女
↓
定綱 ※定綱、頼朝から近江守護に任じられる
※佐々木秀義:13歳の時、源為義の猶子となり、一字賜って「秀義」と称する。保元の乱では
長男・義朝に与して義父・為義と戦う。平治の乱でも義朝に与して敗れ、
平清盛に本領の佐々木庄を奪われ、奥州・藤原秀衡のもとに逃れる。逃れる途中、
相模国で渋谷庄司重国に引き止められ、重国の庇護を受けることとなり、
重国の女を娶り、五男・義清をもうける
※沙沙貴神社:JR安土駅の南2kmに位置し、
大鳥居の「佐々木大明神」の額は源頼朝が佐々木定綱に頼まれて筆をとったもの
713
5月 諸国に風土記編纂の官命出される
この年、『常陸国風土記』、成立
※日高見国→ひたかみち→ひたかち→常陸
※日高見(ひたかみ)→きたかみ→北上川
※旧日高見国に新しく常陸国が置かれたことで、日高見国は現・北上川流域を意味するようになる
※日高見神社:北上川河口近くにあった北上川の水神(七宮)
この年、「大隅国」が日向国から分轄される
714
5月 大納言・大伴安麻呂、死去
6月 首(おびと)皇子、立太子
この年、山上憶良、従五位下となる
715
7月 知太政官事・穂積(ほづみ)親王、死去
9月 元明、譲位
→氷高内親王、即位(元正)
※元正の御代、内教坊を設け妓女を養ったのが、記録上の遊女の始まり(小野孝二)
9月 「霊亀」に改元
716
この年、行基、敦賀に羽賀(はが)寺を建立する
717
3月 左大臣・石上(いそのかみ)麻呂、死去
→後任任じられず、右大臣・不比等が国政を掌握することに
※上席の知太政官事と左大臣は、不比等の死まで空席のままとなる
3月 遣唐使、出航
→吉備真備・玄ぼうら
4月 僧・行基らの活動を禁止する
11月 「養老」に改元
718
藤原不比等ら、養老律令を撰定する
※不比等自ら主宰して新律令を編纂・施行することで、藤原氏の栄誉をさらに高めようとした(坂本太郎)
※8世紀前半に藤原四家成立(北家・南家・式家・京家)
この年、大伴家持、旅人の長男として、平城京で生まれる(母は多治比郎女(たじひのいらつめ))
719
楊貴妃、誕生
720
1月 阿倍少麻呂、死去
※阿倍少麻呂:日本海岸の蝦夷征討で有名な阿倍引田臣比羅夫(ひらふ)の子で、藤原仲麻呂の算術の師
8月 藤原不比等、死去
→不比等死去の翌日、舎人(とねり)親王が知太政官事(ちだいじょうかんじ)に就任する
※養老律令の編纂は中絶し、しばらく施行されることなく終わる
※知太政官事:太政大臣に相当する国政の首班
8月 新田部(にいたべ)親王、知五衛及授刀舎人事(軍事総監)に就任する
※不比等の死の直後に、舎人・新田部という2人の天武皇子が要職に就任したことになる
→皇親政治復活
舎人親王ら、日本書紀を撰定する
~当時の日本が目指した国家像~
高天原の神
↓
↓天壌無窮の神勅(日本書紀巻二神代下):天皇支配の正当性の根拠
↓
天皇
(日本の支配者であり、この地位は天皇家の血統に属するものが世襲する)
cf.天命・徳・易姓革命といった思想は、日本律令においては意識的に不採用
「八議」から「六議」に変容した形での受容
→日本統治は天皇家の世襲であって、王朝交代は認めないという政治思想の現れ
※『日本書紀』は東征を意志しており、従来の「西向きの日本史」から「東向きの日本史』へ
→北方の交易ルートだけは従来通り開かれ続けている(七宮)
※世襲カリスマ型支配(マックス・ウェーバー・『支配の社会学』)
※『日本書紀』の中に、「肥えて広い日高見国」との表現あり、「日高見」が訛って「常陸」に
721
1月 長屋王、右大臣に昇進し、新政権の中核となる
※長屋王:高市親王子で、妃は草壁親王の王女・吉備(きび)内親王
1月 藤原武智麻呂:従三位・中納言
藤原房前:従三位
藤原宇合:正四位上
藤原麻呂:従四位上
12月 元明、崩御
→即日、固関(こげん)
※「固関」の文献上の初見
※固関:京に内乱が勃発した際、あるいは、それが予想される場合に、
東国との連絡を未然に断つ目的で行われる。
9世紀後半以降は、天皇崩御の際などの一儀式と化する
※固関使:政変や天皇の代替わりの際に、
鈴鹿(伊勢)・逢坂(おうさか・近江)・不破(ふわ・美濃)の三関を固める使
722
1月 多治比真人三宅麻呂(たじひのまひとみやけまろ・正四位上)、穂積朝臣老(おゆ・正五位上)、
伊豆・佐渡に配流となる
→不比等と元明の死に乗じて、皇親や旧族が巻き返しに転じる動きがあったか(岸)
墾田百万町歩開墾を計画する
723
4月 三世一身法を制定する
→土地国有制の原則が破られ、荘園制が展開する契機となる
(実質は711年12月詔の追認か)
724
2月 長屋王、左大臣となる
→舎人親王(知太政官事)・多治比真人池守(大納言)とともに、台閣を皇親勢力で独占している
2月 元正、譲位
→首即位(聖武)
2月 「神亀」に改元
4月 藤原宇合、蝦夷を征討する
この年、陸奥国に多賀城を築く
→桓武の死まで約80年間、東国の人々は征夷戦争に駆り立てられ疲弊していく。
坂東が征夷の兵站基地となり、多くの官牧が開かれるとともに、新しい開墾地をめぐって
争いが生じてくる
→乗馬に巧みな武士が増える土壌に
※坂東:足柄山・碓氷峠以東の関東地方(福島・山梨は含まず)
※奥州では、俘囚の長として、安倍氏と清原氏が成長していく
725
726
726年頃、藤原仲麻呂、内舎人(うどねり)となり、さらに、大学少允(しょうじょう)に進む
※五位以上の官人の子・孫は21歳以上になると、そのうち性識聡敏で儀容に優れた者が内舎人
となるが、父が三位以上であれば無条件に内舎人となれた
(この時、父・武智麻呂はすでに正三位)
726年頃、山上憶良、筑前守として赴任する
727
閏9月 聖武・光明子の間に皇子が誕生する
→生後1ヶ月で立太子することに
(藤原氏の焦燥の現れか(岸))
渤海使、初来日
728
8月 中衛府(ちゅうえふ)が設置される
→藤原氏が、大伴・佐伯ら旧族と関係の深い五衛府を制圧して
兵権を掌握しようとしたとされる
※中衛府:授刀舎人寮を拡大強化したもの
9月 聖武・光明子の間の皇太子、死去
→聖武・光明子とともに、藤原氏一門が大きな衝撃を受けたと思われる
※この頃、県犬養宿禰広刀自(あがたいぬかいのすくねひろとじ)に安積(あさか)親王が誕生している
→藤原不比等がうった天皇外戚への布石が破綻する恐れが、
長屋王の変・光明立后という流れを加速させたか(岸)
※皇太子、那富山(なほやま)に葬られる
→隼人石(はやといし・奈良市北郊)が皇太子墓と伝わる
729
2/10 長屋王の変
→漆部造君足(ぬりべのみやつこぎみたり・従七位下)・中臣宮処連東人(なかとみのみやこのむらじあずまひと)が
長屋王の謀叛を密告したことで、藤原宇合らが六衛府(りくえふ)の兵を率いて
佐保(さほ)邸に左大臣・長屋王を囲む
2/11 舎人親王・新田部親王・多治比池守・藤原武智麻呂(中納言)ら、
長屋王邸に赴いて糾問する
2/12 長屋王に自害が命じられる
→長屋王、吉備内親王と4人の子(膳夫王・桑田王・葛木王・(金へんに句)取王)とともに自害する
※長屋王、生駒山に葬られたとされる
※事件後の寛大な処置をも考慮すれば、長屋王1人を排除するための陰謀であった疑いが濃厚(岸)
3月 藤原武智麻呂、大納言となる
6月 藤原麻呂、河内国古市郡(安宿媛母・三千代の本貫)から瑞亀を献上する
→三千代が娘・安宿媛の立后を実現させるため、賀茂子虫(かものこむし)を用いて仕組んだものとされる
8/5 「天平」に改元
8/10 安宿媛の立后が発表される
→光明皇后
以後、再び藤原氏主導で国政が運営されていくことに
※当時の皇后の地位は、「執政権を有する皇位継承有資格者」という性格を帯びており、
藤原氏がこのような性格に着目して、安積の即位を抑えるために急遽立后にこぎつけたか(岸)
※浄御原令(きよみはらりょう)以降、皇后(こうごう)・妃(ひ)は内親王に限られ、諸王・諸臣の娘は夫人以下
(夫人(ふじん)・女へんに賓(ひん)・宮人)という扱いを破った異例の立后
→立后を実現させるために、反対が予想される皇親の長屋王を排除したということか(岸)
730
9月 大納言・多治比池守、死去
→後任、任じられず
10月 藤原房前、中衛大将に任じられる
→以後、豊成・仲麻呂らに引き継がれていく
731
3月 諏訪国を廃する
7月 大納言・大伴旅人、死去
→後任、任じられず
8月 参議制が確立される
→新たに6人の参議(宇合・麻呂を含む)が選任され、藤原四家が揃って台閣に列することに
※従来の慣例では、参議以上の議政官は一氏一人に限られていたが、藤原氏から四人輩出されたことに
11月 畿内に惣管(そうかん)、山陰・山陽・南海に鎮撫使(ちんぶし)を派遣し、社会不安に対応する
732
春 酷い干ばつに見舞われる(~夏頃)
9月 台風により大きな被害が生じる
この年、山上憶良、帰京
733
春 飢饉
734
1月 藤原武智麻呂、右大臣となる
4月 大地震
9月 大地震
735
3月 吉備真備・玄昉ら、唐から帰国する
7月 天然痘が筑紫で流行する
11月 知太政官事・舎人親王、死去
→不比等の頃と同様、後任は任じられず
736
11月 葛城王、臣籍に降り、橘諸兄と称する
737
九州から天然痘が大流行する
→藤原四兄弟死去(743年まで、一時的に退潮)
(代わりに、橘諸兄・吉備真備・玄昉らが台頭してくる)
4月 藤原房前、死去
7/25 藤原武智麻呂、死去
7月 藤原麻呂、死去
8月 藤原宇合、死去
8月 僧・玄昉、僧正となる
9/28 ・鈴鹿王、知太政官事となる
・橘諸兄、大納言となる
・多治比真人広成(たじひのまひとひろなり)、中納言となる
・大伴宿禰道足、参議となる
・藤原豊成、従四位下
・藤原乙麻呂、従五位下
・藤原永手、従五位下
・藤原広嗣、従五位下
→武智麻呂期とは異なり、新政権では皇親・旧族の藤原氏に対する優位が明らかであり、
不比等が推進した律令制に背馳する政策をも進めることとなる
(玄昉・吉備真備が大きな発言権を持つことに)
738
1月 阿倍(あべ)内親王、立太子
→安積親王(11歳)がいるにもかかわらず、聖武・光明の第一皇女を立太子
藤原氏が、前例のない女子の立太子を押し切ったか
1月 橘諸兄、右大臣となる
5月 健児を停止する
この年、中臣宮処東人、囲碁の最中に長屋王の変が誣告(ぶこく)であったことを口外してしまい、
大伴宿禰子虫(おおとものすくねこむし)に斬殺される
739
1月 藤原仲麻呂、従五位上
6月 兵士を停止する
6月頃 郷里制、廃止
740
1月 藤原仲麻呂、正五位下
1月 藤原巨勢麻呂、従五位下
2月 聖武、難波宮行幸
2月 聖武、行幸の途中、河内知識(ちしき)寺(大阪府柏原市太平寺)で廬舎那仏を拝す
→大仏鋳造のきっかけか
8/29 太宰少弐(だざいのしょうに)に左遷されていた藤原広嗣(式家)、
玄昉・吉備真備の排除を上表(じょうひょう)する
→容れられず
9/3 太宰少弐・藤原広嗣、大宰府で挙兵(藤原広嗣の乱)
→大野東人、追討将軍に任じられる
※南家も北家も同調せず
→既に藤原氏四家の同族意識は薄れていたか
10月下 聖武、伊勢国に赴く
→藤原広嗣の乱に刺激されて平城京でも内乱が誘発されることを懸念し、
一時避難しようとしたか(岸)
※藤原仲麻呂、この時、前騎兵大将軍に任じられ、警衛にあたる
11月 藤原広嗣敗死により、乱鎮定
※伊勢国壱志(いちし)郡河口行宮(三重県一志郡白山町川口)の聖武のもとに、広嗣敗死の報が届く
→平城京に戻らず、恭仁郷に遷都することに
11月 藤原仲麻呂、正五位上
12月 恭仁京遷都
→相楽(さがらか)郡恭仁(くに)郷に都城を営み、大養徳恭仁大宮(おおやまとくにのおおみや)と称する
※橘諸兄らの発議によるとされる
この年、「肥前国」初見
→九国三島→「九州」成立
※三島:対馬・壱岐・種子島
この年、穂積朝臣老、大赦で入京を許される
741
3月 国分寺・国分尼寺建立の詔出される
閏3/5 藤原仲麻呂、従四位下
閏3月 平城京の武器が恭仁京に移送され、五位以上の官人の平城居住が禁止される
7月 藤原仲麻呂、民部卿となる
9月 遷都に伴い、大赦が行われる
※藤原広嗣の乱に連坐した者らが赦免される
742
3月 恭仁京の東北から近江国甲賀郡に通じる路が開かれる
8月 紫香楽(しがらき)村(滋賀県甲賀郡信楽町)に離宮が営まれ、聖武が行幸する
大宰府を廃し、筑前国に併合する(~745年まで)
743
聖武、行基を大仏造立の勧進に起用する
5/5 阿倍内親王、恭仁宮において、五節を舞う
5/5 知太政官事:鈴鹿王(従二位)
左大臣:橘宿禰諸兄(従一位)
中納言:巨勢朝臣奈氐麻呂(従三位)
中納言:藤原朝臣豊成(従三位)
参議:大伴宿禰牛養(従四位上)
参議:藤原朝臣仲麻呂(従四位上)
参議:紀朝臣麻呂(従四位下)
5/27 墾田永年私財法、出される
→三世一身法を改め、位階に応じた所有制限を課しつつも、墾田の私有を認めた
※三世一身法では開墾田を収公するため開墾意欲が削がれたことの反省に立ち、
墾田を収公して口分田に組み込むことを放棄した
( 口分田と墾田が分離して存在することとなった(名を捨て実をとる))
※発意者は争いあり
・藤原仲麻呂説(岸)
・橘諸兄説
6/30 藤原仲麻呂、左京大夫を兼ねる
7月末 紫香楽宮行幸(~11月上)
10月 廬舎那仏金銅像(こんどうぞう)造立の詔出される
→近江紫香楽宮で造立に着手
※藤原仲麻呂、光明皇后に従い、廬舎那仏造営を支援する
この年、藤原仲麻呂、参議となる(藤原氏の巻き返しが始まる)
744
1月 難波京と恭仁京のいずれを都とすべきか下問される
難波 恭仁
五位以上 23 24
六位以下 130 157
計 153 181
閏1/11 聖武、官人の反対にもかかわらず、難波宮行幸を強行する
※この時、安積親王急死
→仲麻呂らによる暗殺説も
2月 聖武、紫香楽宮に行幸する
2/26 橘諸兄、勅を受け、難波宮を皇都とすると宣言する
745
1/7 藤原仲麻呂、正四位上
1月 行基、玄昉を超えて大僧正に任じられる
4月頃 紫香楽宮周辺の山々でしきりに怪火があがり、不穏な空気がみなぎる
→度重なる遷都に対する人々の不満が表面化してきた
5月 平城還都
※同時に、紫香楽宮の大仏造営は中止され、大倭(やまと)国添上(そうのかみ)郡山金(やまがね)里で再開される
8月 聖武、難波宮に行幸する
※難波滞在中に重病に罹る
→阿倍内親王の立太子に不満の橘奈良麻呂が、度重なる遷都に対する人々の不満を背景に、
多治比氏や旧族の大伴・佐伯らと結んで、長屋王遺児・黄文(きぶみ)王を即位させて
藤原氏に対抗しようとする動きがあった
9/4 知太政官事兼式部卿・鈴鹿王、死去
→大宝以来の知太政官事制に終止符がうたれるとともに、
天武皇親政治の終焉という意味も
9/4 藤原仲麻呂、近江守を兼ねる
※この頃、仲麻呂、八束(やつか・真楯)と反目する
→仲麻呂が八束の才能を嫉んだとも
11月 玄昉、筑紫観世音寺の造営を命じられる
→実質左遷
この年、楊貴妃、「貴妃」の位を与えられる
この年、平城京に都を戻す
746
3/5 藤原仲麻呂、式部卿となる(鈴鹿王の後任)
→民部卿は紀朝臣麻呂に譲っている
4/22 藤原仲麻呂、東山道鎮撫使となる
同日、従三位
6月 玄昉、死去
10月 吉備真備、「吉備朝臣」の氏姓を賜る
12月 鎮撫使の停止と引き換えに、諸国兵士が復活される
747
3月 「大養徳国」が、元通り「大倭国」に改められる
9月 廬舎那仏の鋳造が始まる
748
3/22 藤原仲麻呂、正三位
3/22 藤原豊成、従二位・大納言
4/21 元正上皇、崩御
749
2/2 行基、弟子に勧進を託して82歳で死去
4月 「天平感宝」に改元
4/22 陸奥国守・百済王敬福、黄金九百両を持って入京する
閏5月 大赦
7/2 聖武、病により阿倍内親王に譲位する(即日、人事異動)
→孝謙即位
7/2 大納言:藤原仲麻呂
中納言:石上朝臣乙麻呂(おとまろ)
中納言:紀朝臣麻呂
中納言:多治比真人広足(ひろたり)
参議:大伴宿禰兄麻呂(えまろ)
参議:橘宿禰奈良麻呂
参議:藤原朝臣清河 以上、新任
左大臣:橘諸兄
右大臣:藤原豊成
大納言:巨勢奈○麻呂(なでまろ)
参議:石川年足
参議:藤原八束
7月 「天平勝宝」に改元
8月 紫微中台、設置
8月 藤原仲麻呂、紫微令(しびれい)を兼ねる
※紫微令:新設された令外官・紫微中台(しびちゅうだい・
皇太后となった光明子が新たに即位した孝謙を補佐するための組織)の長官
10月 廬舎那仏の鋳造が完成する
11月頃 橘奈良麻呂、再び先の黄文王擁立計画を佐伯全成(さえきのまたなり)に持ちかける
→全成、再び拒絶する
750
1月 藤原仲麻呂、従二位
1月 吉備真備、筑前守に左遷される
751
8月 大伴家持、少納言に遷任され都に戻る
※以後、家持を中心として、反仲麻呂派の人物が饗宴を重ねることに
752
3月 廬舎那仏の塗金が始まる
閏3/9 遣唐使の副使以上が内裏に召され、節刀(せっとう)を賜る
→・大使:藤原朝臣清河(きよかわ) ※初めて藤原氏が遣唐使に参加
・副使:大伴宿禰古麻呂(こまろ)
吉備朝臣真備
4/9 平城京の東大寺で、塗金の終了を待たずに大仏の開眼供養が盛大に催される
※この日、孝謙、大仏造営の功労者・藤原仲麻呂の私邸・田村第(たむらだい)に入り、そこを御在所とする
→孝謙と仲麻呂の男女関係の憶測が生じることとなる
753
3月 大納言・巨勢奈○麻呂、死去
※以後、左大臣橘諸兄・右大臣藤原豊成と、大納言兼紫微令・藤原仲麻呂の対立が激化することに
4月 大赦
754
1月 大伴宿禰古麻呂・吉備真備、帰国
※この時、古麻呂の船に乗って、鑑真が来日している
※藤原清河の船は、阿児奈波(あこなは)島(沖縄)付近で消息を絶ち、
安南に漂着してついに帰国を果たせなかった
4月 鑑真、東大寺大仏殿の前に戒壇を築いて沙弥(しゃみ)4百余人に授戒する
※鑑真、戒壇院(かいだんいん)の北に唐禅院(とうぜんいん)を建てて住む
→以後、仲麻呂の庇護を受けることに
7月 藤原宮子、死去
11月 孝謙、聖武・光明の御体平安と宝寿増長を薬師琉璃光仏(やくしるりこうぶつ)に祈願するとともに、
大赦を行う
755
10月 聖武、重態となる
756
2月 橘諸兄、酒席での失言を密告されたのを受け、左大臣職を辞任する
→諸兄の脱落により、右大臣・豊成と大納言兼紫微令・仲麻呂の兄弟が
政治の実権者として残ることに
(既に仲麻呂の権勢が豊成を圧倒している)
3月 聖武、難波の堀江に行幸する
4月 聖武の病が悪化する
※橘奈良麻呂、みたび全成を誘うも拒否される
5/2 聖武、崩御
→光明が皇権を掌握し、光明の甥で紫微令の藤原仲麻呂の専制体制へ
即日、遺詔により新田部親王の子・道祖王が立太子される
5/3 固関
6/21 聖武遺愛の調度や薬物が東大寺に献納される
→いわゆる正倉院御物
※施入勅書に署判を加えている者
・藤原朝臣仲麻呂:従二位行大納言兼紫微令中衛大将近江守
・藤原朝臣永手:従三位行中務卿兼左京大夫侍従
・巨萬朝臣福信:従四位上行紫微少弼兼武蔵守
・賀茂朝臣角足:紫微大忠正五位下兼行左兵衛率左右馬監
・葛木連戸主:従五位上行紫微少忠
→永手以外は紫微中台の官人であり、光明・仲麻呂の権勢が窺える
7/8 法隆寺に聖武の遺物が献納される
7/26 再び聖武遺愛の調度や薬物が東大寺に献納される
大伴古慈裴の変
この年、楊貴妃、死去
757
1/6 前左大臣・橘諸兄、死去
3/29 道祖王(ふなどおう)、廃太子
4/4 大炊(おおい)王、立太子
→藤原仲麻呂の意向によるとされる(岸)
5月 藤原仲麻呂、紫微内相となる
7月 橘奈良麻呂の変
7/2 孝謙、次々と届く謀叛の密告を受け、詔を発する
→事態の収拾に努めたか
7/2 この日の夜、中衛舎人従八位上・上道臣斐太都(かみつみちひだつ)、
藤原仲麻呂に重大な密告を行う
→「今日未時(ひつじのとき・午後1時頃)、前備前守・小野東人が斐太都を呼んで、謀叛への参加を迫った。
その内容は、①東人の他、黄文王・安宿王・橘奈良麻呂・大伴古麻呂ら参加者多数、②精兵4百で
田村宮を囲む、③大伴古麻呂が美濃不破関で病と称してとどまり、これを占拠すること。」
→反仲麻呂勢力は潰滅し、右大臣・豊成も政界から追放され、仲麻呂の独裁体制が確立することに
7/8 藤原仲麻呂、子・朝○を従五位下に昇らせるとともに、
陸奥守(佐伯全成の後任)に任じて東北に発向させる
8月 「天平宝字」に改元
閏8月 東国防人を停止する
この年、養老律令が施行される
この年、「大倭国」を「大和国」に改める
758
7月 大伴家持、因幡守に任じられる
8月 藤原仲麻呂、右大臣に昇進し、「恵美押勝」の名を賜る
8月 藤原仲麻呂、太保となり、「恵美押勝」と称する
759
6/18 藤原仲麻呂、新羅を討つために、大宰府に派兵の行軍式(こうぐんしき)を造らせる(『続日本紀』)
→仲麻呂の新羅征討計画の初見
※唐の内乱に乗じて、対日従属からの脱皮を志向する新羅を討とうとしていた
11月 近江保良宮(ほらのみや)の造営が始まる
※近江は、仲麻呂一族の領国の観があった
※詔勅:「朕思ふ所有りて、北京を造らむと議す。」
→690年、唐の則天武后(そくてんぶこう)が太原府(たいげんふ)を北都とし、さらに、742年に玄宗が
北都を北京に改めたことを模したもので、仲麻呂の唐風趣味の現れ(岸)
760
1月 恵美押勝、従一位太帥となる
3/16 銭貨の改鋳の勅が発布される
→私鋳の禁断に向けた過渡的措置として、新銭と和同開珎を併用することとした
※経済政策の失敗により、仲麻呂の政治生命を縮めることとなる
6/7 光明皇后、崩御
→孝謙と淳仁の仲介役を失ったという意味でも、仲麻呂にとって致命的な痛手に
※聖武と同じく、大和国添上郡佐保山(さほやま)に葬られる
6月 藤原乙麻呂(仲麻呂異母弟)、死去
恵美押勝、太政大臣となる
760頃 弓削道鏡、内道場に「看病禅師」の1人として名を連ねる
761
10/13 淳仁と孝謙、初めて保良宮に幸する
10/28 淳仁・孝謙、保良宮にしばらく滞在する旨、公式に表明する
→次第に2人が対立することに
(背後の仲麻呂と道鏡の対立の現れ)
762
2月 恵美押勝、正一位
5/23 孝謙上皇と淳仁天皇、反目したまま保良宮から平城京に帰還する
→以後、道鏡ら反仲麻呂派の暗躍により、仲麻呂専制体制に揺らぎが生じることに
※淳仁:平城宮中宮院に入る
孝謙:出家して法華寺に入る
6/23 藤原袁比良古(おひらこ・仲麻呂正妻)、死去
7/19 紀飯麻呂(いいまろ・前参議散位)、死去
9/30 石川年足(仲麻呂の腹心的存在)、死去
※仲麻呂、親しい人物をたて続けに失い、次第に窮地に陥る
道鏡、孝謙上皇の容体を診る
763
春頃 藤原良継事件(『続日本紀』良継薨伝)
→良継が、佐伯今毛人・石上宅嗣・大伴家持と謀って、仲麻呂殺害を計画したとされる
※右大舎人弓剃宿禰男広(ゆげのすくねおひろ)の密告により発覚し、良継1人が罪をかぶり、
大不敬(だいふけい)の罪をきて姓と官位を剥奪された
この年、藤原仲麻呂一族、東大寺から多数の経巻を借用して、その写経に努める
この年、藤原仲麻呂、栄山寺(えいさんじ)八角堂を建立する(国宝)
→法隆寺東院夢殿と並ぶ奈良朝円堂建築
※栄山寺:南家の氏寺としての性格が強い。武智麻呂の墓あり。
764
1月 藤原良継事件に関与した大伴家持・石上宅嗣・佐伯今毛人の3人が左遷される
6/19 藤原御楯、死去
※御楯:藤原仲麻呂の愛娘・児従(こより)の婿で、仲麻呂が最も信頼していた人物)
6月 授刀少志弓剃連浄人(ゆげのむらじきよひと・道鏡弟)、宿禰の姓を与えられ、勢力を伸張する
9/2 恵美押勝、自ら孝謙に申し出て、都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使に就任する
→明らかに軍事権掌握目的で、かつての紫微内相就任と同じ意義(岸)
※仲麻呂、直ちに兵数を改竄して巧みに自兵を京に潜入させようと試みる
9/11 法華寺の孝謙、少納言・山村王を遣わし、
中宮院の淳仁のもとにあった皇権発動に必要な鈴印を回収しようとする
→仲麻呂、久須麻呂に命じてこれを撃退させ、鈴印を奪い返し、
鈴印の争奪に端を発して戦闘となる(藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱)
→孝謙、即日、仲麻呂の官位と藤原の氏姓等を奪うとともに、固関を命じる
9/18 藤原仲麻呂、近江国高嶋郡勝野鬼江(かつのおにえ・乙女ヶ池)で妻子・従者とともに討たれる
※仲麻呂の美しい娘が、官軍兵士千人に犯されたと伝わる
※藤原巨勢麻呂、仲麻呂に坐して斬殺される
9/20 仲麻呂追討軍、平城京に凱旋する
9/20 詔勅により、藤原豊成が右大臣に、道鏡が大臣禅師に任じられる
9月 唐風官号を元に戻す
→仲麻呂の施策の否定
10/9 ・淳仁:廃位・淡路へ追放
・船親王:隠岐配流
・池田親王:土佐配流
※この時、和気広虫(ひろむし)、孝謙に願い出て、斬罪相当の375人を、
いずれも流罪・徒罪に減軽せしめたとされる(『日本後紀』)
10月 孝謙上皇、重祚して称徳天皇となる
765
1/7 「天平神護」に改元
春 和気広虫、83人の棄子を収養して養子とし、夫の氏姓・葛木首(かづらぎのおびと)を与える(『日本後紀』)
3月 墾田永年私財法を否認し、墾田の私有を禁止する
10月 淳仁、配所で脱走を試みるも失敗して国司に捕えられる
→翌日、奇怪な死をとげる
道鏡、太政大臣になる
766
767
この年、最澄、滋賀郡古市郷で生まれる
768
769
宇佐八幡宮神託事件→和気清麻呂、大隅国に流される
770
8月 称徳、崩御
→光仁、即位
→道鏡、下野薬師寺別当に左遷される
和気清麻呂、政界復帰
この年、「宝亀(ほうき)」に改元
771
東大寺の大仏がようやく完成する
772
井上皇后・他戸皇太子、幽閉される
773
774
大伴駿河麻呂ら、蝦夷を討伐する
→811年まで「38年戦争」と呼ばれる蝦夷との戦い
775
776
777
778
779
1月 土師古人、外従五位下となる
780
伊治公砦麻呂(いじのきみあざまろ)の乱
781
桓武即位
→藤原百川の尽力が大きかったとされる
父・光仁の指示により、弟・早良が立太子される
※桓武の妻:藤原良継娘、これとの間に安殿・加美能
桓武の父:光仁
母:高野新笠(たかののにいがさ)
外祖父:和乙継(やまとのおとつぐ・百済系渡来人の末裔とされる)
※桓武の代で、賜姓平氏が始まる
→以後、仁明・文徳・光孝の子孫に平姓が与えられることに
5月 土師古人、遠江介となる
6月 土師古人、従五位下となる
6/25 土師宿禰古人(ふるひと)・道長(古人長男)ら15人の請願により、
「菅原」(居住地・大和添下(そうのしも)郡菅原郷(奈良市菅原町)に由来)への改姓が認められる
※土師氏:天穂日命(あまのほひのみこと)の末裔とされ、6世紀末から7世紀にかけて、
蘇我氏と密接な関係を築く。菅原古人は、学業に優れていたが経済的には
困窮しており、これを桓武が支援して、後の道真出現の素地を作る。
乙継―――土師真妹(まいも)
↓ ※桓武即位により外祖母となり、
↓ 菅原氏が台頭してくることに
光仁―――高野新笠
↓
↓
桓武
この年、富士山、大噴火する
782
氷上川継の乱
783
784
桓武、長岡京に遷都
→・奈良仏教との訣別説
・秦氏との関係説
・天命思想説(滝川政次郎)
・蝦夷征伐との関連説(北山茂夫)
・讖緯思想説
5月 長岡京造営開始(推進者:藤原小黒麻呂)
6/10 藤原種継らを造長岡宮使に任命する
11/11 桓武、長岡京に行幸する
12/18 秦忌寸足長、「築宮城」という理由で従五位上に叙せられる
※長岡京発掘報告
内裏(天皇の私生活の舞台)と朝堂院(ちょうどういん・儀式の場)が分離している
→天皇権力と国家機構の分離を意味すると考えられる cf.平城京
785
1/1 未完成の大極殿で、朝賀の儀式が行われる
8/24 桓武、平城京に行幸する
→伊勢神宮に参向する朝原内親王を見送るため
8/28 大伴家持、死去
→「薨去」ではなく、「死」とのみ記されている(『続日本紀』)
9/23 藤原種継(長岡京の造営長官)、暗殺される
→・強大化する藤原氏に対する他氏の危機感説
・平城京に縁のある勢力の犯行説
・皇位継承問題説
9/24 桓武、急遽、平城京から長岡京に戻る
→直ちに事件の解明に乗り出す
桓武、弟・早良親王よりも皇子・安殿親王(平城)に皇位を譲りたかったため、
種継暗殺と早良を関連付けて廃太子とした
→早良親王、憤死
11/25 安殿親王、立太子
786
1/17 藤原百川の女・旅子、桓武の後宮に入る
787
788
最澄、比叡山延暦寺(天台宗総本山)を開山
789
紀古佐美(きのこさみ)、大軍を率いて蝦夷を征伐する
※紀古佐美の子孫に益子氏(栃木県芳賀(はが)郡・益子焼きで有名)あり
ex:益子権守(ましこごんのかみ)紀正隆
790
791
792
6/22 長岡京で大洪水発生
8/9 長岡京で再び大洪水発生
この年、軍団を廃し、健児を置く
793
1月 平安遷都、決定
→初代・造宮大夫:藤原小黒麻呂
・早良怨霊説
→単独では理由にならないのでは
・洪水説
→最有力か
・秦氏による招致説
→長岡を棄てさせるほどまでの力が果たしてあったか
・長岡遷都推進派に対抗する勢力の台頭説
→むしろ、同じ勢力により二度の遷都が行われていないか
※この年、六角堂の臍石(へそいし)、御堂から取り残されたと伝わる
794
9/28 桓武、遷都と蝦夷攻略の成功を祈願する
→遷都と軍事が桓武朝の二大政策
10/22 桓武、新京に車駕を遷す
→陰陽道の「革命」の時にあたる辛酉を選ぶ
cf.長岡京の時は、「革令」の日にあたる甲子が選ばれた
10/28 桓武、遷都の詔発す
→山紫水明の地であること、
四方から百姓が参集するのに便利であることが遷都の理由とされている
※桓武、遷都にあたり、大内裏南に神泉苑を開く
→常に清泉が湧き出していたとされる
※神泉苑:毎年5月1日から4日間、神泉苑祭が行われる
東寺真言宗に属する
※「内野」:元々は「大内裏の野原」、すなわち、「宴(えん)の松原」の意。中世に多くの役所が廃絶し、
大内裏が野原と化して以降は全体を内野と呼ぶようになり、卒塔婆(そとば)が沢山
立てられた(千本卒塔婆)。その後、朱雀大路が内野の南北に延長されると、
千本通りと呼ばれるようになった。
※飛騨匠:豊楽院など、平安京の造都事業で重要な役割を担う。飛騨匠を通じて京の技術や
文化が飛騨に伝わり、高山が「小京都」と呼ばれることになる。
春秋の高山祭のからくり人形でも有名。
11/8詔 「山背を山城に改め、新京も平安京と号する」
この年、藤原小黒麻呂死去により、和気清麻呂が二代目造宮大夫に就任する
平安時代初期(特に大同年間)、官衙の縮小統廃合が行われる
→背景に財政難あり
795
796
この年、東寺の造営が始まる
797
1月 菅野真道、長岡京の地一町を賜る(『日本後紀』)
→遷都・早良怨霊説からは説明が苦しい
6/28詔 「虚役の国を除き、諸国の田租を全免または半免する」
→造都工事により民衆が疲弊した状況を無視し得なかった
この年、菅野真道(百済系渡来人の子孫)ら、『続日本紀』を撰修する
→長岡京に関する充分な記述が見られないのは、
桓武の失政を隠そうとする気持ちの現れか
坂上田村麻呂、征夷大将軍に任命される
この年あたりから、造都工事がピークを迎える(~800年頃)
798
799
800
801
班田を、12年に一度とする
坂上田村麻呂、蝦夷を平定する
802
8/13 大墓公阿弖流爲(たものきみあてるい)、河内国で処刑される
※枚方(ひらかた)市の片埜(かたの)神社そばの小さな公園にアテルイの首塚あり
この年、胆沢城、築城される
※この地に「奥六郡」が置かれることに
※七時雨(ななしぐれ)山以北の糠部・津軽地方の蝦夷村が「日の本」と呼ばれるようになる
→日の本の世界に住む人間集団=エミシ
非農耕(狩猟・海猟)の異文化の人間集団
・奥六郡のエミシは「俘囚」
・それ以北の夷地の人間は「エゾ」と呼ばれる
→分水嶺は、岩手郡の七時雨山(七宮)
※10世紀半ば、安倍氏が奥六郡を支配することに
※安倍姓は、アイヌ語で火を意味する安比(あっぴ)から出たともいわれる(七宮)
この年、菅原清公、遣唐判官となる
803
804
この年、菅原清公、入唐する
→大使:藤原葛野麻呂(かどのまろ)
最澄・空海・橘逸勢(はやなり)らが渡海
坂上田村麻呂、征夷大将軍に再任される
805
12/7 公卿ら、造都による民衆疲弊、災疫による農桑の被害を理由に、諸負担の軽減を
内容とする改革案を建言する
12/7 同日、桓武、勅命を下し、参議・藤原緒嗣、菅野真道を招き、面前で徳政相論を行わせる
→緒嗣:軍事と造都を中止すれば百姓は安泰
真道:軍事はともかく、造都については頑強に継続を主張
↓
桓武、藤原緒嗣の意見を採用する
→自らの二大政策の撤回
12/10 造宮職、廃止
この年、最澄帰国し、天台宗を伝える
806
3月 桓武、崩御
5月 平城、即位
7/13 公卿ら、平城に、「先帝の忌が明ければ天皇は新宮に遷るのが国家の慣例」として、
新宮の営構について伺いをたてる
→平城、「交通の便が良いし、設備も整っているし、民衆を煩わせるに忍びないので、
旧宮に留まる」と述べる
この年、空海帰国し、真言宗を伝える
この年、王臣寺家の山野占有を禁ずる
807
5月 伊予親王事件
→皇位継承の不安定さを露呈
藤原南家没落のきっかけとなる
808
809
4/1 平城、神野親王に譲位し、平城宮に移る(薬子一派の策謀のままに嵯峨と対立することに)
→嵯峨、即位
やがて、平城上皇が嵯峨に容喙するようになる
810
9/6 平城上皇、平城還都を呼びかける
→薬子の変(12日に収束)
平城遷都の命が出たのを機に嵯峨方が平城方を制す
薬子は服毒自殺、藤原仲成は射殺される(藤原式家退潮)
東国に逃れようとした上皇も平城に連れ戻され、剃髪出家
【薬子の変の原因】
・平安遷都によって父・藤原種継の死を無駄にされたと感じた
子・仲成、薬子らの怨念説(村井康彦)
【薬子の変の影響】
① それまでなかった譲位後の上皇の居所が用意される(後院)
「二所朝廷(にしょちょうてい)」に対する反省
→冷泉院・朱雀院
→「譲位により、上皇は内裏を出る」との慣行が生まれる
※その後、里内裏の出現で機能が弱まり、また、
院政期には受領の奉仕により院御所が営まれるようになる
ex:六条殿・白河殿・鳥羽殿
② 蔵人頭が設置される(文官武官1名ずつ))
→頭の弁(とうのべん):藤原冬嗣
頭の中将(とうのちゅうじょう):巨勢野足(こせののたり)
③ 変の際、嵯峨が賀茂社に平定を祈願したことから、賀茂の斎院が始まることに
→初代斎院:有智子(うちこ)内親王(嵯峨皇女)
④ かえって平安京の安定化につながることに(『方丈記』(鴨長明))
※薬子の変以降、保元の乱に至るまで死刑が執行されていない
(死刑判決はあっても、勅命により刑一等を減じて遠流に処するなど)
811
10月 葛原親王(桓武皇子)、上野国利根郡長野牧(群馬県利根郡月夜野町か)を賜る
→平氏と東国の関係が生じる
桓武―――
↓
↓
葛原―――
↓
↓
――――――――
↓ ↓
↓ ↓
高棟王 高見王―――
↓
↓
高望王
文室綿麻呂を征夷大将軍に任じる
812
813
814
5月 嵯峨の皇子女・50人中32人に、「源朝臣」を賜姓する
→賜姓源氏の始まり
以後、淳和・仁明・文徳・清和・村上・宇多・醍醐・嵯峨・花山の子孫に源姓が与えられる
※清和源氏以外に武士団として発展した源氏
・摂津渡辺党(嵯峨源氏)
・肥前松浦党
・近江佐々木氏(宇多源氏)
この年、『凌雲集』が勅撰される
815
815年頃、小野小町、生まれる
(出羽国司)
良実―――――
↓
↓
小町
※小野たかむらの孫で、書家・小野道風は従兄
仁明の東宮時代から崩御まで仕える
816
夏 最澄、東国伝道を開始する
817
818
この年、天下の儀式・男女の衣服・五位以上の位記などを唐風に改め、
宮殿・院堂・門閣の名をも唐風に変えて、新しい額を掲げさせる
→嵯峨の唐風政治の現れとして有名
※かつて遣唐判官として入唐した経験を有する菅原清公が推進したとされる
※嵯峨、神泉苑に度々赴いている
→唐風文化高揚
いわゆる「国風暗黒時代」へ
『文華秀麗集』
819
820
弘仁格式を編纂する
821
この年、最澄、『法華秀句』を著す
→法相宗(ほっそうしゅう)の徳一との論争に終止符
822
この年、藤原藤成、死去
『日本霊異記』
823
この年、空海、東寺を賜る
大宰府管内諸国で、公営田制を実施する
824
春 空海、神泉苑で善女(ぜんにょ)龍王を祀って祈雨の法を修する
→以後、名僧が競って祈雨の修法を行うこととなる
825
高棟王、「平朝臣」姓賜る
→賜姓平氏の始まり
在原業平、誕生(『伊勢物語』)
この年、空海、東寺の講堂・講堂諸尊の造営を始める
826
阿保親王(業平の父、薬子の変で連座)の意向により、業平、「在原」姓を賜り、臣籍に降る
上総・常陸・下野の3ヶ国が官符により親王任国とされ、「守(かみ・国の最高長官)」は置かれず
「介」が事実上の国の長官となる
この年、空海、東寺の五重塔の造営を始める
827
『経国集』
828
空海、綜芸種智院を建立する
空海、箸蔵寺(はしくらでら)を建立する
※空海、箸食文化に仏教的意義付けを与え、日本人に箸文化が根付いていく
※箸蔵寺、赤坂日枝神社で、毎年8月4日に御箸祭が行われ、
使用済みの箸を火中に投じて箸に感謝の意を示す
829
830
831
この年、源信(嵯峨皇子)、参議となる
832
源常(ときわ・信の弟)、参議を経ずに中納言となる
833
清原夏野ら、『令義解』を撰上する
源定(さだむ・常の弟)、参議となる
834
1月 最後の遣唐使派遣
藤原良房、従四位下・参議となる
835
3/21 空海、高野山に入定する
藤原良房、権中納言・従三位に叙せられる
→異常な速さの昇進は、源氏の官位昇進の前例に従ったもの
836
837
838
慈覚大師・円仁、遣唐使に従って唐に渡り、密教を学ぶ
839
この年、菅原清公、従三位に叙せられ、初めて公卿に列せられる
→清公の学問の力によるところが大きい
この年、東寺講堂諸尊の開眼供養が行われる
840
841
藤原緒嗣ら、『日本後紀』を撰上する
842
7/15 嵯峨、崩御
→直ちに伊勢・近江・美濃の三関を固める
※嵯峨の死後、急速に藤原氏が成長する
7/17 固関を解く一方で、春宮坊帯刀伴健岑(とものこわみね)・
但馬権守従五位下橘朝臣逸勢(はやなり)を捕える
→承和の変
7/18 逸勢・健岑を糾問する(~19日)
※藤原良房が、外戚の地位を得るために、橘太皇太后の威を借りて実行したもので、
北家・良房流のみが繁栄する基礎を築いた(坂本太郎)
7/23 恒貞親王、皇太子を廃される
8/4 道康親王、立太子
→藤原氏が天皇の外戚として成長する大きなきっかけとなる
※藤原摂関期に成立した家筋
・紀伝道(きでんどう):菅原・大江
・明経道:清原・中原
・明法道:惟宗・坂上(さかのうえ)
・算道:三善(みよし)・小槻(おづき)
・天文、暦、陰陽道(おんみょうどう):賀茂・安倍
・医道:和気・丹波
10/17 菅原清公、死去
843
844
845
6/25 菅原道真誕生(是善第三子・母は伴(とも)氏)
※道真の遠祖:古くは土師(はじ)氏に由来
菅原古人(ふるひと)→清公(きよとも)→是善(これよし)→道真
※道真生誕地:菅原院天満宮社地と伝わる(上京区烏丸下立亮)
→菅原院の場所につき、『帝王編年記』・『拾芥抄(しゅうかいしょう)』説をとり、且つ、
母方・伴氏の家ではなく、父・是善邸生誕説を採用することを前提とする
846
847
円仁、帰国
848
2月 上総の俘囚(ふしゅう)・丸子廻毛(まりこのつむじ)らが叛乱を起こす
※俘囚:陸奥原住民(蝦夷)のうち、律令政府に降伏・恭順した者
征夷の過程で、多くの俘囚が坂東に送り込まれている
藤原良房、右大臣となる
849
850
この年、仁明崩御
851
852
11月 菅原善主(よしぬし・清公三子)、死去
この年、小野小町、宮仕えを辞して小野に戻り、余生を送ったとされる
※仁和寛平の頃、70歳を越して死去したとされる
深草少将の百夜通(ももよがよい)の伝説が有名
853
藤原良房、染殿に観桜の宴を開く
854
855
856
857
藤原良房、太政大臣となる
858
8/27 清和、即位
11/7 清和、即位礼
同日、藤原良房が摂政に任じられたとの説もある
※清和源氏祖:武蔵介・源経基(つねもと)
→平将門と戦う
埼玉県北足立郡田間宮村の城山が営所跡と伝わる
※土岐氏
清和源氏・源頼光が美濃守護に補任され、その子・頼国も美濃守護に任じられ、
頼国の曾孫・光信の代で美濃国土岐郡土岐郷(現・土岐市)に居住し、「土岐氏」を
称するようになる(『江濃記』)後年、光信の子孫・頼貞が南北朝の動乱期に北朝方として
軍功をあげ、その功により美濃守護に任じられ、代々美濃守護を土岐氏が世襲するようになる
頼貞の子は頼基、頼基の子は頼重で、土岐頼重が明地(明智)氏祖とされる(『尊卑分脈』)
→頼重から光秀に至る過程には諸説あり
859
この年、菅原道真、元服
860
861
862
863
1月 インフルエンザが大流行する
5月 神泉苑で、初めて御霊会(ごりょうえ)が催される
→1月以降のインフルエンザの大流行を、早良親王以下5人の祟りと考えた
※神泉苑:俗に「御池(おいけ)」と呼ばれる
→御池通り
※この御霊会がきっかけとなって、京中各地で御霊会が催されるようになる
ex;祇園御霊会(後の祇園祭り)
864
藤原基経、従四位下・参議となる
865
866
閏3/10 応天門が燃える(応天門の変:伴善男ら配流され、大伴氏・紀氏が没落)
→大納言・伴宿禰善男、これを左大臣・源信による放火であるとして源信の失脚を謀る
↓
証拠がないことと、藤原良房の助けにより、源信の疑いは晴れる
8/3 今度は逆に、大納言・伴宿禰善男と、その子・右衛門佐中庸(なかつね)が放火犯として訴えられる
→左京人備中権史生・大宅首鷹取(おおやのおびとたかとり)が善男らの犯行と密告したことによる
(善男の従者・生江恒山(いくえのつねやま)の隣人で、
子どもの喧嘩で大納言の威を背景に鷹取の子を蹴ったことを恨んだとされる)
8/7 善男の尋問
8/19 藤原良房、人臣初の摂政となる
→その後も「摂政」のままで、「関白」には切り替えられなかった
※まだ天皇幼少期は直接的代行者としての摂政、
天皇成人後は間接的後見者としての関白という慣行はなかった
8/29 共犯として、中庸も捕えられる
9/22 善男・中庸・紀豊城(きのとよき)・伴秋実(ともあきざね)・伴清縄(ともきよただ)が配流され、
連座する者は処刑された
藤原基経、良房に倣って、従三位中納言となる
867
1/7 菅原道真、得業生となる
2/29 菅原道真、正六位下・下野権少じょう(しもつけごんしょうじょう)に叙任される
→文章得業生が、諸国のじょうを兼ねることが慣例とされていた
868
この年、滋野恒蔭、信濃介に任じられる
869
藤原氏宗ら、貞観格を撰ぶ
藤原良房ら、『続日本後紀』を撰上する
870
春 菅原道真、良香邸で弓射の嗜みを示す
※坂本太郎は、事実に反するとする
2月 諸王の季禄を減額し、受給者を固定する
3/23 菅原道真、方略試(ほうりゃくし)を奉じる
5/17 菅原道真、及第中上と判定される
9/11 菅原道真、昇進するも、正六位上に据え置かれる
この年、滋野善根、信濃守に任じられる
※滋野氏は、海野・禰津(ねつ)・望月三氏が特に選んだ中央名門で、三氏は海野氏なる貴種の子孫と
称することで東信濃に確固たる地盤を築くことができた。その意味で、滋野氏は東信三族が創出した
光栄ある祖先であった」(黒坂周平)
871
1/29 菅原道真、玄くさかんむりに番助となる
3/2 菅原道真、少内記となる
※内記:詔勅の起草
872
1/6 菅原道真、存問渤海客使に任じられる
1/14 菅原道真の母、死去
→道真、解官(げかん)して1年の喪に服する
2月 右大臣・藤原氏宗、死去
5/24 菅原道真、喪の満たないうちに、特に許されて本官に復し、勅書の起草を命じられる
5月 渤海使、入京
8月 源生、死去
9/2 藤原良房、死去
→藤原基経、代わって清和の摂政となる
10/13 菅原道真、右大臣・藤原基経のために、官を謝する表を草す
この年、菅原是善(清公四子)、参議となる
→学問の上で父・清公の跡を継ぐとともに、父が任じられなかった参議に任じられており、
父よりも政治実務に通じていたか
873
874
1/7 菅原道真、従五位下
1/15 菅原道真、兵部少輔
2/29 菅原道真、民部少輔に転じる
→3年余りの民部少輔時代に、後の讃岐守に耐えうる準備がなされた
文章の代作も継続している
この年、理源大師・聖宝(りげんだいししょうぼう・弘法大師の孫弟子)、醍醐寺を創建する
※醍醐寺:真言宗醍醐派総本山
聖宝、笠取山(醍醐山・山岳信仰の霊山)に登り、白髪の老翁の姿で現れた地主神・
横尾明神(よこおみょうじん)より水(醍醐水)が湧き出るこの山を譲り受けたのが醍醐寺の始まり
醍醐・朱雀・村上の三代にわたり天皇の深い帰依を得る
応仁の乱で五重塔を残して下醍醐が焼失し、上醍醐も荒廃するが、
秀吉の醍醐の花見を契機に再建されていく
875
この年、下総国で俘囚の乱(下野にも波及する)
876
11/29 藤原基経、摂政となる
cf.872年11月29日説もある
877
1/15 菅原道真、式部少輔に転じる
10/18 菅原道真、文章博士を兼ねる
→式部少輔・文章博士で、道真の「家風継承」という第一目標が達成されたか(坂本)
※以後、道真は多くの仕事をこなすとともに、他の学者らによる嫉妬に悩まされ続けることに
878
この年、出羽・秋田城下で俘囚の大乱が勃発する
879
1/7 菅原道真、従五位上
2/25 都良香、死去
→以後、5年ほど道真1人の文章博士が続くことに
この年、菅原是善、従三位となる
畿内・七道諸国に班田を実施する
元慶官田の制
→畿内五ヶ国に、合計四千町歩の官田を設置する
(深刻な財政難を背景に、不足する中央財源・官人給与に充てる目的)
880
8/30 菅原是善、死去
在原業平死去
「むかし、男ありけり、その男、身を要なきものに思ひなして、京にはあらじ、
あづまの方に住むべき国求めにとて、行きけり」(『伊勢物語第八段』)
881
882
1/7 陽成、元服
→菅原道真、天皇元服賀表を草す
1月 菅原道真、右大臣・源多のために、官を謝する表2通を草す
883
1/11 菅原道真、加賀権守を兼ねる
藤原基経、陽成の奇行を見て摂政辞任を申し出る
→上級貴族も政務を執らなくなる
この年、上総国で俘囚の乱が勃発する
※坂東で俘囚の乱が続く過程で、この地に土着武士団が形成されていく
→やがて、国衙勢力と争うことに
この年、東寺の五重塔が完成する
884
2/25 菅原道真、文章博士の欠員補充を要請する
5月 菅原道真、太政大臣の職掌の有無について勘奏を上る
→道真、「職掌なし」と明確に否定する
5/26 橘広相(ひろみ)、文章博士に任じられる
6/5 光孝、菅原道真の勘奏に反し、基経に諮るよう命じる
6月 藤原基経、人臣初の関白となる
※時期については史料に問題があり、確定できないとの見解もある(米田雄介氏)
陽成、退位を申し出る
885
886
1/16 菅原道真、讃岐守(正官であり、遙任(ようにん)不可)に任じられる
→式部少輔・文章博士・加賀権守(権官)の三官を辞して、嫌々ながら任地に赴くことに
※讃岐守拝任は、菅原家門徒の勢力拡大を恐れた反菅原系学者の運動と、
為政者の意向によるものか(坂本太郎)
※讃岐での国司生活が、視野を拡げるきっかけとなったとも
(机上の空論にとどまらない、実務経験に裏打ちされた見識を養う)
887
8月 光孝の病が重くなる
→藤原基経の計らいにより、源定省を親王に列し、次いで、立太子することに
8/26 光孝、源定省(さだみ)に譲位する
→宇多
秋 菅原道真、暇を乞うて入京する
11/7 宇多即位(11/17?)
→菅原道真の、異例のスピード出世が始まる
(藤原基経が阿衡の紛議を終結させるきっかけを作ったことに由来か)
11/21詔 「関白」の語の史料における初見
→「関(あずか)り白(もう)せ」
閏11/26 藤原基経、関白辞退
→形式的
閏11/27 橘広相の草した勅答により、藤原基経の関白辞退が退けられる
→「宜しく阿衡の任を以て卿(けい)の任となすべし」との表現が問題となる
式部少輔・藤原佐世(すけよ)、
「阿衡はただ位であって職掌ではないため、基経は政治に与るべきではない」と主張した
→基経、広相の処罰を求めて政務を執らず
※佐世、基経の威を借りて広相を陥れ、自己の学界における優位を確保しようとし、基経としても、
娘を宇多の女御に入れて外戚化する可能性のある広相を潰そうとしたか(坂本太郎)
888
5/6 菅原道真、城山神(きやまのかみ)を祭って雨を祈る
阿衡の紛議
→菅原道真、太政大臣・藤原基経に書を送り、紛議の無意味を訴える
(讃岐守として紛議の外に身を置いていたことで、客観的に見られたか)
※道真が基経に書を送った時期は不明
→仮に11月説をとると、基経の翻意との因果関係はなかったことになり、
単に基経の自発的な翻意を事後に補強したにとどまることに
10月上 藤原基経女・温子、入内して女御となる
→基経の阿衡問題における軟化につながったか
10月下 阿衡の紛議、収束
889
4/27 「寛平」に改元
この年、平将門、生まれる(『応仁記(おうにんき)』)
この年、高望王、「平」姓賜る
※武士の成長
中央 ――――――――――――――――――― 地方
↑
藤原北家が政権独占 皇親ゆえに遠ざけられる
↓
地方からは歓迎されて婿取り婚がなされる場合もあった
(婿取り婚でありながら、当時は父系に受け継がれており、
有力な地盤を形成することが可能であった)
→このような状況の中で、高望王らが地盤を形成していく
↓
高望王の子孫達が、関東の国司や奥州の武官として成長してくる
関東は早くから律令支配体制が弱まっていた
(9c半ばに諸国に検非違使が置かれた時、特に武蔵国では郡ごとに置かれるような状況であった)
↓
このような状況では、地方豪族は武装が不可避となり、
私闘・反乱・豪族間の支配権争いが常態化していく
↓
次第に「兵(つわもの)の家」が形成されていき、「兵の道」という道徳感情が育まれていった
ex:高望王の子孫
※平良文:村岡五郎とも呼ばれ、「坂東平氏諸流の祖」とされる
※村岡:・武蔵国大里郡村岡(埼玉県熊谷市)説
・相模国鎌倉郡村岡(神奈川県藤沢市)説
※坂東平氏:平良文を祖とする伝承を有する豪族
ex:・武蔵:秩父・畠山・河越・野与・村山
・相模:三浦・和田・大庭・梶原
・下総:千葉
※千葉氏:平良兼を祖とする伝承もある(和田茂右衛門氏)。平良文が染谷川の合戦で敗北した際、
妙見菩薩が現れて危機を救ったとの伝承があり、千葉氏は妙見菩薩を氏神とする
※千葉神社(千葉市):現在、天之御中主を主神とするも、明治の神仏分離令以前は
北斗山金剛授寺妙見堂と呼ばれ、古くは千葉氏の氏神であった
(毎年8月に「千葉妙見はだか祭り」)。良文流に属する者は、
その居住地に必ず妙見菩薩を勧請し、延命長寿・怨敵降伏等の祈祷や
世継の元服式を必ず妙見の祠の前で行う(豊田武氏)
※平良文に、妙見菩薩落胤伝承あり
※妙見菩薩:北極星・北斗七星を神格化したもので、
千葉氏の「月星」・「七曜」・「九曜」といった家紋のルーツ
890
春 菅原道真、讃岐から帰任する
5月 橘広相、死去
この年、平高望、上総介に任じられ上総国府(千葉県市原市)に下向し、そのまま土着する
→先駆者・藤原春継らの留任形態を踏襲したか(野口実)
※任務の1つに、俘囚・野盗の巣窟と化していた東国の治安維持があった
→軍事貴族化は必然 (高望王の武功は伝わっていない)
→やがて、軍事貴族同士で、互いに勢力圏拡大のために抗争することに
※高望王、911年までの在任中に、「坂東平氏」と呼ばれる多くの子孫を残す
※政府、9世紀に積極的に東国(とりわけ坂東)に親王任国を配置したり、勅旨田を設置している
→東国と王族の関係強化政策か(野口実)
889年あるいは890年の4月、東国強盗の首(しゅ)・物部氏永(もののべのうじなが)が
武蔵で武装蜂起する
この年、藤原菅根、藻原庄・田代庄を興福寺に施入する
891
1/13 関白・藤原基経死去
→しばらく摂政・関白置かれず
2/29 菅原道真、蔵人頭
3/9 菅原道真、式部少輔
3/19 藤原時平、21歳の若さで参議に列せられる
4/11 菅原道真、左中弁を兼務する
※この頃、道真、一躍政治の中心に
892
1/7 菅原道真、従四位下
12/5 菅原道真、左京大夫を兼ねる
893
2/16 菅原道真、参議となる
同日、式部大輔を兼ねる
※ほどなくして、道真は左大弁、勘解由長官、春宮亮をも兼ねるほどに躍進することに
3/16付 太政官符
→甲斐・武蔵・信濃・上野等国御牧使として、嵯峨源氏の右馬助源悦(よろこぶ)が所見する
→10世紀の坂東に嵯峨・仁明源氏系とみられる軍事貴族が展開することの前提事実(野口実)
4/2 敦仁親王、立太子
→宇多が、参議・菅原道真1人と相談して決定したとされる
5月 新羅の賊船、九州近海に出没し、人宅を焼亡(しょうもう)する
894
8/21 菅原道真、遣唐大使に任じられ、紀長谷雄が副使に任じられる
9/14付 菅原道真、諸公卿に遣唐使の進止(しんじ)を議定せられんことを請うた奏状を呈出する
9/30 遣唐使廃止決定(『日本紀略』)
※一般に、①日本文化の発達によって派遣の意義が薄れたこと、②渡航の危険が理由とされる
※坂本太郎は、遣唐大使の任命自体が政治的ゼスチャーだったとする
12/15 菅原道真、侍従を兼ねる
895
1/11 菅原道真、近江守を兼ねる
5/7 渤海客使、入京
10月 菅原道真、従三位に叙せられ、中納言に任じられる
11/13 菅原道真、春宮権大夫を兼ねる
この年、東寺の食堂に千手観音像を造立する
896
7/5 菅原道真、検税使の可否を反覆評議すべき奏状を上る
→讃岐守の経験を踏まえ、地方人民の福祉を考えた大文章とされる
8/28 菅原道真、民部卿を兼ねる
897
6/19 藤原時平、大納言・左近衛大将に任じられる
6/19 菅原道真、権大納言に任じられ、右近衛大将を兼ねる
→藤原時平と並ぶ大納言
7/3 宇多、醍醐への譲位の詔書の中で、藤原時平・菅原道真を並んで
内覧(天皇に先んじて文書を閲覧できる権限・地位)に任じる(内覧宣旨)
→藤原氏抑制のためのバランス・オブ・パワー政策
↓
これに承服できない貴族・官人が外記庁(げきのちょう)に出仕せず、審議拒否にでる
※宇多が譲位の際、奏請・宣行のことは全て道真・時平の両人を経るよう命じたことで、
他の官人が疎外されたと感じた
7/13 菅原道真・藤原時平、並んで正三位となる
7/26 菅原道真、中宮大夫を兼ねる
898
8/16 「昌泰」に改元
9/4 菅原道真、「宇多上皇から、出仕しない納言達に対し、怠慢と叱責して欲しい」
との申文を提出する
899
2/14 藤原時平、左大臣に任命され、菅原道真、右大臣に任命される
2/27 菅原道真、右大臣職を辞する第一表を奉る
3/4 菅原道真、右大臣の辞表を奉る
3月 島田宣来子(道真嫡室)、従五位下となる
※この頃が道真の絶頂期か(坂本太郎)
3/28 菅原道真、再び右大臣の辞表を奉る
11/5 菅原道真、職封を減ぜんことを請う表を奉る
この年、上野国でにんべんに就馬(しゅうま)の党(騎馬隊の強盗団)の乱が勃発する
9世紀頃、沖縄、血縁共同体社会から地縁共同体に移行し、
階級分化の兆しが見え始める(喜しゃ場一隆)
900
2/6 菅原道真、みたび右大臣の辞表を奉る
8/16 菅原道真、『菅家文章』に『菅相公集』・『菅家集』を添えて天皇に献上する
10月 三善清行(みよしきよゆき)、菅原道真に対し、直接に辞職勧告を行う
※9世紀末頃、藤原秀郷生まれたか(野口実)
藤原(北家)魚名―――
↓
↓
藤成(五男)―――
↓
↓
・・・・・・―――
↓
↓
藤原村雄(むらお)――――――鳥取豊俊(ととりとよとし)女
山城国田原庄を領す ↓
↓
秀郷
村雄・豊俊ともに下野国衙(都賀(つが)郡)に勤める官人で、同郡に居住していた(野口実)
※秀郷自身が生前「俵藤太」を名乗ったとの確証はない。
→山城国綴喜(つづき)郡田原郷(京都府宇治田原町)を意識して、後世の人が創作したか(野口)
※近江国(三上山の百足退治伝説)と関係をもったことを示す史料もない。
この年、醍醐、勧修寺(かじゅうじ)を創建する
901
1/7 菅原道真、藤原時平とともに、従二位に叙せられる
1/25 菅原道真、大宰権帥(だざいごんのそつ)に左遷される
→大納言・源光が右大臣となり、中納言・藤原定国が右近衛大将となる
追放の理由
・宇多上皇にへつらって権勢を恣としている
・ひいては、天皇と上皇の離反を画策している
・斉世親王(天皇の弟で、妻は道真女)の擁立を画策している(承和の変に準じて扱われることに)
→背景に、異例の出世を遂げた道真に対する嫉妬がある
(学者で高官に昇ったのは吉備真備くらいしかいなかった)
↓
宇多、驚いてまだ17歳の醍醐の誤りを正そうとするも、
兵によって阻まれて天皇に会えなかった
→年少の醍醐の指示ではなく、藤原時平の指示と思われる
道真を擁護するのは宇多1人
→異例の出世を遂げた道真に対する反発の空気が、
上皇の参内阻止という不祥事の発生を許してしまったと思われる
1/27 除目
→菅原道真与党が左遷されることに
2/1 菅原道真、京を発つ
「こちふかば
にほひおこせよ
むめのはな
あるじなしとて
はるをわするな」
7/15 「延喜」に改元
藤原時平ら、『日本三代実録』を奉る
902
3月 延喜荘園整理令
903
2/25 菅原道真、大宰府で死去
→遺言により、大宰府に葬られる(後の安楽寺)
904
905
藤原時平、延喜式の編纂に着手する
※『延喜式』(巻十六・陰陽寮)
→鬼を「千里之外、四方の堺(ほとり)、東方陸奥、西方遠値嘉(とかち 五島列島)、南方土佐、北方佐渡
よりをちの所」へ追放するよう規定している
※鬼は国の境の外、つまり異域に住む穢れ多い恐るべきものと考えられていた
※畿内の王朝から見て東側の外の世界は、「日の本」とか、「日高見国」と呼ばれていた
※畿内から見れば「鬼」であっても、東国から見れば西国と戦う「英雄」(七宮)
紀貫之、『古今和歌集』の選にあたる
906
907
908
10/7 藤原菅根(すがね・参議・道真左遷に協力)、死去
この年、疫病が流行する(~910年)
909
4/4 藤原時平、死去
※『大鏡』は、時平の子孫がみな夭死(ようし)したことを強調している
910
911
912
この年、源(多田)満仲(経基長男)、京都市南区八条町六孫王神社付近で生まれる
※かつて貞純親王が住み、父・経基もこの付近で誕生しているため、清和源氏発祥の地ともいえる
913
914
三善清行、意見封事十二箇条を奏上する
915
916
8/12条 『日本紀略』
→「藤原秀郷」の初見
この年、下野国で罪人・藤原秀郷事件
917
918
919
この年、武蔵国国衙襲撃事件
920
921
この年、空海、「弘法大師」の名を贈られる
922
923
3/21 皇太子・保明(やすあき)親王、死去
→ついに道真の怨霊対策に動くことに
4/20 道真の右大臣を復し、正二位を贈るとともに、左遷の詔書を破棄する
この年、「延長」に改元
924
925
この年、皇太子・慶頼(よしより)王(母は時平女)、死去
926
この年、醍醐の御願により、醍醐寺の金堂、創建される
※永仁・文明年間に二度焼失する
現・金堂は1600年完成
薬師如来坐像が醍醐寺の本尊
927
928
929
930
6月 請雨(あまごい)について議していた清涼殿に落雷
→大納言・藤原清貫(きよつら)、即死
天皇、病気に
9月 天皇、譲位
※間もなく崩御している
藤原忠平、摂政となる
平将門、伯父・国香を殺害する
→承平天慶の乱
※下総猿島(さしま)・豊田郡に所領を有する将門、国香・良兼・良正らと所領を争ったか
※律令体制が崩壊し、徴税対象が人から土地に
(徴税単位を人から名(みょう)という複合経営単位としての土地に転換)、
地方行政が受領の請負(律令制再建を放棄して、
一国の支配をその国の実情に応じる形で国司に請け負わせる)となる
王朝国家体制へと転換する過程で起きた
→地方豪族の武力によって鎮圧されたことで、地方豪族が国家の軍事・警察権を掌握する契機となる
(中世的武門成立の起点と位置づけられる)
紀貫之、土佐守として任地に赴く
931
平良兼と平将門、「女論」により不和に(『将門記』)
932
933
平良文、上野国七星山息災寺(群馬県前橋市妙見寺)から下総国海上(千葉県香取郡東庄町)に
妙見堂を勧請する
934
12/21 紀貫之、土佐守の任を終え帰京の途につく
935
2/16 紀貫之帰京
→前年12月21日以降を『土佐日記』として書き残す
この年、平将門、前常陸大じょう・源護を破る
→源扶・国香を討ち取る
936
この年、朱雀、醍醐の菩提を弔うため、醍醐寺の五重塔の建立に着工する
紀淑人、南海道の海賊を降す
937
平将門追捕の官符が下る
938
※938年頃、平将門、朝廷・国衙の収奪強化・綱紀引き締め政策によって頻発していた
国司と地方豪族との紛争の調停に乗り出すようになる
・武蔵国司⇔足立郡司武蔵武芝(むさしのたけしば)
・常陸国司⇔藤原玄明(はるあき)
→調停に失敗し、国衙襲撃へ
939
11月 平将門、常陸国府(茨城県石岡市)を襲撃する
→私闘から、国家に対する反逆へ転化
※武蔵介・経基(つねもと)、都に逃げ帰り、将門の謀叛を報告する
藤原高扶(たかすけ・陸奥守)―――――
↓
↓
清夏(きよなつ・上総介)―――――
↓
↓
維幾(これちか・将門襲撃の際の常陸介)―――――平高望女
↓
↓
為憲(ためのり)―――――
↓
↓
・・・・・―――――
↓
↓
時信(ときのぶ)
※時信:駿河守拝任を契機に駿河・遠江・伊豆方面に勢力を伸張する。
12世紀に至り、工藤・狩野・伊東ら有力武士団となる
平将門、下野・上野・武蔵・相模を攻略し、自ら新皇を称する
→一族・配下の者を東国諸国の国守に任命し、京に対する独立を宣言する
※上野国府において、八幡大菩薩の託宣と菅原道真の霊による帝位授与を称して新皇を名乗る
※将門、初めて「日の本将軍」(律令の将軍との関係はない)を称する(『目々沢文書』(相馬文書))
藤原純友、南海で蜂起する
この頃、空也念仏が始まる
940
1月 朝廷、東海・東山両道の追捕使(ついぶし)を任じ、藤原忠文(ただふみ)を征東大将軍に任じるとともに、
官符を下して恩賞をもって将門討伐への決起を促す
2/14 平貞盛(さだもり)・藤原秀郷(田原(俵)藤太)ら、将門追討令を受け、
征討軍の到着前に将門を討ち取る
※秀郷、平将門を討った功により従四位下・下野守に叙任され(破格の栄典)、
その子孫は代々鎮守府将軍や下野大介(おおすけ)となり、
在庁官人として勢力を伸ばすこととなる
※秀郷の武蔵守補任は、下野守の任期満了後か(野口実)
その後、鎮守府将軍に任じられた可能性が高い(野口実)
→11世紀前半まで、秀郷の子孫に鎮守府将軍がほぼ世襲されていくこととなる
※下野国府:下都賀(しもつが)郡国府(栃木県栃木市国府町)
※平貞盛、従五位上・右馬助(うまのすけ)に叙任される
※地方武士が乱を鎮圧したことで、以後、「都の武者」として、
国家軍制の中で明確な役割を与えられるようになる
※藤原秀郷から7代目・雅俊の代で近江国蒲生郡に移り、蒲生姓を名乗ったとされる
※藤原秀郷後裔の資清、朝廷に仕え、主馬首(しゅめのかみ)に任じられ「首藤(すどう)」と称する
藤原鎌足―――
↓
↓
・・・・・・秀郷――――
↓
↓(7代)
・・・・・・資清――――
首藤 ↓
↓
資通―――
↓
↓
通義―――
↓
↓
※俊通、相模国鎌倉郡山内庄を領し、 俊通―――
「山内氏」を称する(いわゆる首藤山内氏) 首藤山内 ↓ その後:丹波説・美濃説・尾張説あり
↓
・・・・・・盛豊―――
↓
↓
一豊
関ヶ原で東軍
土佐24万石の国主に
→この破格の恩賞が、山内氏歴代の
徳川氏に対する忠誠を約束させた(平尾)
941
小野好古ら、博多で藤原純友を討つ
942
943
944
945
946
947
2月 平貞盛、鎮守府将軍に任じられる
閏7/24条 『貞信公記抄(ていしんこうきしょう)』(藤原忠平の日記)
→藤原秀郷、権中納言・源高明を通じて平将門の兄弟の謀叛の情報を朝廷に奏上している
→藤原秀郷は、中央の源高明との関係を存立基盤の1つとしていたか
948
949
この年、朱雀の御願により、醍醐寺の法華三昧堂が創建される
950
10世紀半ば頃から、安倍一族が奥六郡を支配し、畿内王朝から
「俘囚長」の名で呼ばれている
※奥六郡:・胆沢
・江刺
・和賀
・稗貫
・斯波
・岩手 (北上川流域)
※10世紀半ば、安倍忠良、「奥六郡の司(つかさ)」に任命される
→奥六郡が建郡された9世紀半ばから、この地の名産品の交易をめぐり内国の商人と現地のエミシ・俘囚の
間で争いが頻発しており、「夷をもって夷を制す」政策をとった(出羽・仙北三郡の俘囚主・清原一族も同じ)
安倍氏は畿内王権の現地執行者として蝦夷交易の管理者となる
(畿内王権の代弁者と現地王者の二者択一を常に迫られる難しい立場)
→自立を選択した安倍氏は衣川以南に進み、鎮守府将軍・源頼義に討たれ滅亡することに(七宮)
※安倍氏:古い族長制の体質を濃厚に残していた
古いエミシの酋長の系譜に、奥六郡司の権力が重ね合わされたことで同氏の勢力は
飛躍的に増大する。この後、安倍一族の血脈がエミシ・エゾ支配の一貫した原理となる
→安東一族が安倍一族の血脈にこだわる根拠もここにある(七宮)
951
この年、醍醐寺の五重塔、完成する
952
953
954
955
956
957
958
2/17 藤原秀郷、死去(『系図纂要』)
乾元大宝を鋳る(皇朝十二銭の最後)
959
960
この年、多田満仲、平将門入京の情報が流れたため、探索を命じられる
→満仲、歴史に登場
961
経基王、「源」姓を賜る
962
963
9月 源満仲、父・経基王を第宅跡に葬り、社殿を建立する(六孫王神社パンフレット)
→六孫王(ろくそんおう)神社の始まり
964
965
966
藤原道長生まれる
967
6月 村上崩御
※藤原千晴・源満仲、固伊勢関使を辞退している
→満仲のみ病を理由に受理されているのは、安和の変で千晴が失脚することの伏線か(『王朝の貴族』)
憲平親王践祚
→冷泉
藤原実頼、関白となる
この年、公季、いきなり正五位下に叙せられる
968
藤原千晴、坂東で平義盛(よしもり・前武蔵権介)と紛争を起こす
↓
8月 政府、千晴・義盛の尋問と調整に努める
9月 政府、平義盛に非があったと判断する(『日本紀略』)
この年、源頼信生まれる
969
安和(あんな)の変
→藤原師尹(もろただ)および甥・藤原伊尹(これただ)・兼家兄弟ら北家が、
冷泉の退位を期待する左大臣・源高明とその与党の追い落としを図った事件
多田満仲にとっても、軍事貴族としてのライバル・藤原千晴の追い落としを図る好機だったか
→源満仲、安和の変の功により従五位下に進み、実入りの多い越前守・常陸介等に任じられ、
財を築いていく(「摂関家の爪牙(そうが)」と呼ばれる)。さらに、摂津国川辺(かわべ)郡多田庄
(兵庫県川西市)に土着して摂津源氏祖となる
※密告者:源満仲(経基嫡子・藤原師尹に仕えている)
藤原義時(よしとき・前武蔵介・武蔵に権益を有し、
藤原千晴と対立する軍事貴族か(野口実))
→中務少輔橘繁延(なかつかさしょうたちばなのしげのぶ)・左兵衛大尉源連(さひょうえのたいじょうみなもとのつらぬ)の
謀叛を密告し、高明まで連坐させられることに
※『西宮記(さいきゅうき)』:儀式作法・有職故実の第一人者・源高明が完成させた
日本初の朝廷儀式の詳解
→左大臣・源高明を太宰権帥(だざいごんのそつ)に左遷
源満季(みつすえ・満仲弟・検非違使)、藤原千晴(前相模介)・藤原久頼(ひさより)父子を捕える
→千晴、隠岐配流となり、秀郷流藤原氏も、中央政界で後退
惣領の地位は、弟・千常に移る
冷泉譲位
→守平親王践祚(円融)
藤原実頼、摂政となる
970
1/15 藤原千常、鎮守府将軍に任じられる(『結城系図』)
この年、摂政・藤原実頼、死去
→藤原伊尹が摂政となる
この年、多田満仲、多田院を建立する
→多田神社(阪急宝塚線能勢口駅からバスで多田神社前)
971
972
この年、円融、元服する
この年、摂政・藤原伊尹、死去
→藤原兼通、内覧となる
この年、空也死去
973
この年、女へんに皇子(こうし・藤原兼通女)、入内し、この年の内に立后される
974
尾張国の百姓の訴えにより、国守・藤原連貞を罷免する
この年、藤原兼通、円融の関白となる
975
976
977
藤原兼通、関白を藤原頼忠に譲る
978
4月 遵子(じゅんし・藤原頼忠女)、入内
8月 円融、詮子(藤原兼家女)を女御とする
10/2 藤原兼家、右大臣となる
979
6月 女へんに皇子、死去
980
6/1 懐仁(やすひと・一条)親王、生まれる
8/1 大江斉光(おおえのただみつ)、「懐仁」のいみなを献上する
この年、藤原道長、従五位下となる
981
982
2/29 遵子、立后
→円融と藤原兼家の関係が険悪化
11/17 内裏焼亡(じょうもう)
→以後、円融と詮子の交渉が途絶え弟の誕生可能性が消滅し、
後に一条がなかなか譲位できなくなることに(倉本)
慶滋保胤、『池亭記』を著す
983
この年、藤原道長、侍従となる
984
8/27 円融譲位
→藤原兼家を外戚としない師貞親王が践祚(花山)
懐仁立太子(母は詮子)
→外祖父・藤原義懐(よしちか)主導の政権に
※円融譲位の原因
・円融と藤原兼家の対立説(『円融上皇と宇多源氏』(目崎徳衛))
・譲位の代わりに懐仁を立太子させることで、自己の子孫に皇位を残したとする説
(『円融朝政治史の一試論』(沢田和久))
985
8/29 円融、出家
9/19 円融、円融寺(京都市右京区龍安寺内)に入る(『日本紀略』)
『往生要集』(源信)
この年、平繁盛(しげもり・貞盛弟)、従兄弟にあたる陸奥介・平忠頼(ただより)・忠光(ただみつ)兄弟を訴える
→忠頼らの追討を命じる官符が東海・東山両道に下され、平忠常の乱にまで引き継がれることに
986
6/18 藤原済時の白河第で、法華八講が修される
※藤原義懐と清少納言のやりとりあり(『枕草子』第33段)
6/23 花山、密かに清涼殿を出て蔵人左少弁(くろうどさしょうべん)・藤原道兼に同乗し、
東山の元慶寺(がんぎょうじ・京都市山科区北花山河原町)で出家する
→懐仁(7歳)、突如践祚することに(一条)
藤原兼家(一条外祖父)、摂政となる
前関白・頼忠、太政大臣にとどまる
※藤原道兼(兼家次男)、寵愛していた女御の死で深く悲しんでいた花山につけ込み、
「天皇が出家すれば私も出家します」と山科の元慶寺に誘い出し、出家させたとされる。
この時、多田満仲が花山の御車の護衛にあたったとされる(『大鏡』)
※藤原兼家が、外孫が立太子していながら即位を見ずに死去した父・師輔の二の舞を避けるために
仕組んだものか(倉本)
(外祖父)
藤原兼家――――
↓
↓ 花山が出家して懐仁が即位すれば藤原兼家の摂関が
円融―――女 約束されているという状況での、花山の突然の出家
↓
↓
懐仁
※執政者となった兼家、子息の急速な昇進を図ることに
※懐仁の7歳での即位は、この時点での史上最年少即位で、鳥羽の5歳まで破られず
・朱雀:8歳
・清和:9歳
・陽成:9歳
・円融:11歳
※この時の先帝不在の異常な譲位が、後世に参照されることとなる
(『十~十二世紀の「譲国儀」と先帝没後の剣璽渡御』(藤森健太郎))
※法起院:33ヶ所めぐり番外
→33ヶ所巡礼創始者:
長谷寺(奈良)
※花山、衰退していた33ヶ所めぐりの再興に尽力(→番外)
6/24 藤原義懐・惟成(これしげ)、元慶寺に赴いて出家する
6月 藤原道長、一条践祚の際、昇殿を許される
7月 多田満仲、多田荘の開発を始める(『多田満仲五代記』)
※多田荘に銀山・銅山あり
7/5 藤原詮子、立太后
7/5 藤原道隆、三位中将から参議を経ないで権中納言となる
同日、詮子、皇太后となり、道隆が皇太后宮大夫(だいぶ)となる
7/9 藤原詮子、藤原兼家の東三条殿から内裏に参入する(『日本紀略』)
7/16 居貞、元服し、立太子される
※冷泉・円融の迭立状態の外形が整うも、この時点では弟もおらず、皇子誕生もまだ先の一条(円融皇統)を
藤原兼家が見限る可能性も考えられた(倉本)
7/20 藤原兼家、右大臣を辞任し、弟・為光に譲る
同日、藤原道隆、5人越えて権大納言となる
7/22 一条の即位の儀が大極殿(だいごくでん)で行われる
※この時、大極殿北廂(ひさし)東帷のへんに曼(とばり)内に摂政が伺候(しこう)することが確立した
(『即位式における摂関と母后の登壇』(末松剛))
7/22 藤原道隆、従二位となる
7/23 藤原道長、蔵人・従五位上となる
7/26 藤原道隆、正二位となる
8/15 藤原道長、少納言(しょうなごん)となる
8/25 藤原兼家、円融から准三宮(じゅんさんぐう)の詔を得て、一座宣旨(いちざのせんじ)を受けて
三大臣の上位に位置づけられる
10/15 藤原道長、左少将(さしょうしょう)となる
11/18 藤原道長、従四位下、禁色を許される
987
12月 藤原道長、源雅信(まさのぶ)女・倫子(りんし)と結婚する
この年、藤原道長、非参議従三位となる
988
尾張国の郡司・百姓ら、国守・藤原元命の非政を訴える
この年、藤原道長、参議を経ずに権中納言となる
この年、多田頼光、藤原兼家の二条京極第の新築祝いに馬30頭を献ずる
→頼光、京に住む中流貴族として歴史に登場する
(以後、京在住の身で、実入りの多い国司(受領)を務め続ける)
この年、藤原道長、源高明女・明子(めいし)と結婚する
989
この年、藤原頼忠、死去
この年、藤原道隆、内大臣となる
藤原元命、尾張守を解任される
990
1/25 女御・藤原定子を後宮に入れる
5月 藤原兼家、病により出家する
7/2 藤原兼家、二条第(にじょうてい)で死去
→藤原道隆、摂政となる
※源頼信(兼家四男・道兼の家司(けいし)を兄2人とともに務めていた)、「道隆を殺すべし」と口走って、
兄・頼光が慌てて制止したとのエピソードあり(『古事談』)
10/5 定子、立后(りっこう)
→本来無理な立后により、四后並立となる
※藤原道長、定子立后に伴い、中宮大夫となる
991
7/23 藤原道隆、内大臣を辞し、摂政のみとなる
→父と同様、権力の源泉を摂政に求める
9/7 藤原為光、太政大臣となる
藤原道兼、内大臣となる
9月 詮子、体調を崩したため出家し、
東三条第から一条第・土御門第(源雅信・○子邸)に移る
この年、藤原道長、権大納言となる
この年、藤原伊周、正四位下・参議となる
→この年のうちに、5人越えて従三位・権中納言となる
この年、牛皮山曼荼羅寺、仁海僧正(弘法大師より8代目の弟子)を開基として創建される
※曼荼羅寺:真言宗善通寺派の大本山
仁海、勅命により神泉苑に請雨の法を9回行い、その度に雨が降ったため「雨僧正」と呼ばれたとされる
その後、第5世・増俊阿じゃ梨の時に曼荼羅寺の子房としてずい心院を建立する
応仁の乱で灰燼に帰する
992
この年、藤原頼通、生まれる
この年、藤原伊周、5人越えて権大納言となる
→道長に追いついたことに
993
5/20 菅原道真、正一位・左大臣を贈られる
藤原道隆、関白となる
閏10/20 菅原道真、太政大臣を贈られる
→祟りに対する怖れの現れ
993年頃、光福寺(後の丹波安国寺)、地蔵菩薩を本尊として開創される(安国寺掲示)
※やがて、上杉氏の菩提寺となる
994
この年、源頼信、京周辺の盗賊捜索で活躍し、「武勇の人」として知られることに
この年、源頼義(頼信長男)、河内国壺井で生まれる
この年、藤原伊周、3人越えて内大臣となる
→道長を追い抜いたことに
995
1/19 藤原道隆、次女・原子(げんし)を東宮・居貞(いやさだ)親王に入れる
3/20 大納言・藤原朝光(ともみつ)、死去
4/10 関白・藤原道隆、死去
※伊周への関白継承も実現できず、娘2人を王家に嫁がせながら皇子得ないまま死去したことに
4/27 藤原道兼に関白の宣旨が下る
→東三条院詮子の力添えの結果か(山中)
※この時、伊周と道隆弟のいずれに政権が渡るかが注目されていた
5/8 関白・藤原道兼、死去
※世人から、「七日関白」と呼ばれることに
5/8 左大臣・源重信(しげのぶ)死去
5/11 権大納言・藤原道長に、内覧宣旨が下る
→詮子の力添えによるものか(山中)
※道長を支えた四納言
・藤原斉信(ただのぶ)
・藤原公任(きんとう)
・藤原行成(ゆきなり)
・源俊賢(としかた)
※道長期の主な日記
・『御堂関白記(みどうかんぱくき)』(道長日記)
・『小右記(しょうゆうき)』(藤原実資(さねすけ)日記)
・『権記(ごんき)』(藤原行成日記)
・『左経記(さけいき)』(源経頼(つねより)日記)
6/19 藤原道長、権大納言から右大臣となり、氏長者となる
7/24 藤原道長と藤原伊周、陣座(じんのざ)で口論となる(『小右記』)
7/27 藤原道長の下部と藤原隆家の下部が、七条大路で闘乱に及ぶ
8/2 藤原隆家の従者、藤原道長の随身(ずいじん)を殺害する
996
1/16 長徳の変
→藤原為光の三の君に通っていた伊周が、妹・四の君に通っていた花山が三の君に通っていると
誤解し、隆家とともに謀って従者に花山を射させるという暴挙に及ぶ
4/24 藤原伊周を太宰権帥に、藤原隆家を出雲権守(いずもごんのかみ)に左遷する宣命が発せられる
→中関白家衰退
7/20 藤原道長、右大臣から左大臣に昇る
→右大臣・左大臣を経ても、内覧にとどまり続けることに
12/8 藤原伊周、大宰府に到着する
この年、藤原教通、生まれる
997
4/5 東三条院の御悩の大赦
※藤原伊周・隆家の召還が決定される
4/21 藤原隆家、帰京
12月 藤原伊周、帰京
998
3月 藤原道長、病のため出家しようとするも、一条に止められ思い直す
※998年頃、平維衡(これひら)と平致頼(むねより)、伊勢で私戦
→維衡は淡路に、致頼は隠岐に流される
999
2/9 彰子(12歳)の裳着(もぎ)が、土御門第(てい)で行われる(『栄花物語(えいがものがたり)』)
→入内の準備
※裳着:女子の成人式
2月 定子、懐妊
6/14 内裏焼失
→天皇、一条大宮院に移る
詮子、土御門第に戻る
8/9 定子、出産のため、平生昌の三条宅に移る
11/7 敦康(あつやす)親王、生まれる
11/7 彰子(藤原道長長女)に、女御の宣旨が下される
この年、「長徳」に改元
1000
2/25 皇后・遵子を皇太后に、中宮・定子を皇后に、
女御・彰子を中宮とする宣命が発せられる
→1人の天皇に、2人の后が相並ぶという異例の事態に
12月 皇后・定子、平生昌(なりまさ)第で、女へんに美子(びし)内親王を生む(『日本紀略』)
※産後、定子死去
→二后並立が解消され、以後、
四の君(藤原道隆四女・みくしげ殿)が敦康親王の世話をすることに(『栄花物語』)
1001
2月 び子内親王、東三条院の詮子のもとに迎えられる(『権記』)
8/3 敦康親王、初めて彰子の上の御局に渡る
→彰子が一条の意向により敦康の養母となった(山中)
8/11 敦康の魚味始(まなはじめ)が、中宮・彰子の上の御局で行われる
閏12/16 詮子、体調不良により出家する
閏12/22 詮子、死去
※1001年頃、紫式部、『源氏物語』の創作に着手したか
1002
3/1 藤原道長、自邸で法華三十講を主催する(~29日)
・講師:院源僧都(いんげんそうず・延暦寺)
・問者:林懐(りんかい・興福寺)など
※以後、道長は毎年のように法華三十講を主催している
6/3 四の君(藤原道隆四女)、死去
cf.『栄花物語』は1004年とする
6/7 敦康、道長第に渡る(『権記』)
→後見の四の君の喪に服するためか
1003
4/21 藤原道長、賀茂社参詣
1004
2/6 藤原頼通、右近衛少将として春日祭使を務める
2/7 糸へんに女?子(すいし・居貞親王(三条)の御息所・道長異母妹)、死去
※すい子:源頼定(よりさだ)と浮名を流す
2月頃 藤原道長、詮子や祖先の供養のため、
浄妙寺三昧堂(じょうみょじさんまいどう)を建立する計画をたてる
『和泉式部日記』
この年、一条、北野社行幸に赴く
1005
6/21 藤原道長、祖先供養のための写経を始める
9/26 安倍晴明(あべのせいめい)、死去
10/19 浄妙寺三昧堂供養
1006
3/4 一条、道長の東三条第(去年11月27日以来の御在所)から、以前より修理していた一条院に遷御する
7/13 興福寺僧徒、春日荘の件で八省院に押しかける(~15日)
※道長、氏長者として収拾に努め、国衙の言い分を支持して大和守頼親の立場を守っている
藤原道長、法成寺五大堂を建立する
この年、平維衡(これひら・貞盛四男)、伊勢守在任中に、伊勢国に所領を開発する(七宮)
→維衡、伊勢平氏祖となる
※維衡:下野守・上野介・常陸介等の受領を歴任する
1007
1/1 道長第に、かつてないほどの大勢の人々が正月の挨拶に訪れる
1/5 女へんに喜子(道長倫子腹末娘)、生まれる
※末娘・女喜子の産養を、長女の中宮・彰子が催すことに
閏5/17 道長、中宮亮(すけ)・源高雅(たかまさ)宅で、長斎を始める
→金峯山詣の準備
8/2 道長、金峯山詣に出発する
→彰子の懐妊祈願か
※当時の貴族として初めて吉野まで山道を歩くことに
12/2 木幡浄妙寺多宝塔供養
この年、安倍晴明邸址に、晴明神社が建立される
1008
9/11 彰子、敦成親王(後一条)を生む
9/13 三夜の産養(うぶやしない)が行われる
10/16 一条、敦成と対面するため土御門第に行幸する
尾張国郡司・百姓ら、国司を訴える
1009
1010
1011
6/13 一条、譲位
→居貞親王践祚(三条)
※敦康(13歳)と敦成(4歳)のいずれが立太子されるかが最大の関心事となった
・敦康:後見なく、母・定子も外祖父・道隆もともに死去しており、隆家が唯一の身内という状況
・敦成:全盛期の道長が後見
→敦成立太子
※彰子としては、自分が母代わりとなって育てた敦康を望んだが、道長はそれを承知しつつも、
少しでも早く敦成が天皇になることを望んだ(『栄花物語』)
6/14 一条、出家
6/23 一条、崩御
8/23 外記政始(げきせいはじめ)
→道長、関白を辞退し、内覧宣旨・牛車(ぎっしゃ)の宣旨を賜る
※道長は、左大臣・一上(いちのかみ)として太政官の政務を直接に掌握・指揮していたが、関白となると
一上の権限を次席の大臣に譲らなければならず、太政官諸政を直接指揮できなくなるため(山本信吉)
10/16 けん子・女成子の2人に女御宣旨が下る
1012
1/3 けん子に立后の宣旨が下る
1/16 藤原顕信(あきのぶ・道長子)、突如出家する
※明子腹の不遇が大きな要因とされる
4/27 女成子、皇后となる
→再び二后並立状態に
4/27 けん子、参内する
・道長による妨害説
・最吉日ゆえに重なったとする説(『女成子立后に関する藤原道長の論理』(『日本歴史』2006年4月号))
5/23 道長、延暦寺に赴き、顕信の受戒に列する(『御堂関白記』)
藤原道長の娘・妍子、中宮となる
1013
7/6 禎子(ていし)内親王、生まれる
1014
1015
9/20 三条、新造内裏に移る
10/27 道長、摂政に准じて除目(じもく)・官奏(かんそう)を行う
11/17 内裏、新造2ヶ月で焼失
1016
1/29 三条、枇杷殿(びわどの)で譲位
→敦成親王践祚(後一条)
藤原道長、摂政となる
2/7 後一条、即位
→東宮:敦明(あつあきら)
6/2 後一条、新造の一条院へ遷御する
7/21 土御門第、焼亡
→道長、朱器台盤(しゅきだいばん・氏長者の象徴)を持ち出すのがやっとで、
代々の宝物等の多くが焼亡する
7/26 ぼく子(倫子母・道長の恩人)、死去
8/1 ぼく子、観音寺に葬られる
8/19 土御門第の造作が始まる(『御堂関白記』)
9/24 枇杷第、焼亡
12/7 道長、摂政のまま左大臣を辞する
・右大臣顕光(あきみつ)→左大臣に
・内大臣公季(きんすえ)→右大臣に
1017
3/4 藤原頼通、内大臣となる
3/16 道長、摂政を辞し、従一位に叙せられる
同日、頼通が摂政を継ぎ、左右大臣の上に列せられる
※道長、政務を頼通に移譲するも、「大殿」として政界に大きな影響を及ぼすことに)
3/22 藤原頼通に一座の宣旨が下る(『御堂関白記』)
5/9 三条、崩御
8/4 藤原能信、敦明の東宮退位の意向を道長に伝える
→唯一の後見・三条を失ったことで、自由の身になりたかったか(山中)
※顕光・延子父娘は失望
8/9 敦良(あつなが)、立太子
8/21 敦良、慶賀のため参内する
8/25 敦明親王、小一条院(こいちじょういん)の称号を受け、准太上天皇となる
8/28 藤原頼通、摂政になって初めての京官除目を行う
同日、道長、宇治邸へ赴く(除目への不干渉の表明)
9/22 道長、石清水八幡宮詣(~24日)
→道長の栄華を示す出来事として有名
11/22 小一条院と寛子(道長女)の婚儀が高松第で行われる
11/27 賀茂臨時祭
→この日、藤原道長を太政大臣に任じる兼宣旨が下り、道長、これを受け入れる
12/4 道長の任太政大臣の大饗(だいきょう)が、新造二条第で催される
1018
1/3 後一条、元服
→加冠:太政大臣・藤原道長
理髪:摂政・藤原頼通
1/7 彰子、太皇太后となる(『日本紀略』)
2/3 藤原道長、太政大臣を辞する上表を奉る
→却下
2/5 藤原道長、太政大臣を辞する上表を奉る
2/9 藤原道長、太政大臣を辞する上表を奉る
2/14 藤原道長、法性寺へ詣り、威子の入内の無事を祈請する
3/4 藤原道長、法性寺へ詣り、威子の入内の無事を祈請する
3/7 威子(道長三女)、入内
3/9 新造内裏において、仁王会が行われる(『左経記』)
3/13 藤原長家(道長末子)、藤原行成女と結婚する(『左経記』)
4/28 内裏新造なり、後一条、母・彰子とともに一条院より還御する
6月 土御門第、新造される
→威子立后と後一条行幸に備えたもの
10/16 女御・威子(いし・道長三女)、後一条の中宮となり、中宮・けん子は皇太后となる
→一家から三后が並び立つことに cf. 1/7 彰子、太皇太后
同日、威子の立后を祝う宴会が開かれ、その席上で、
「此の世をば
我世とぞ思ふ
望月の
欠けたることも
なしと思へば」 (『小右記』)
10/22 後一条、土御門第に行幸する
12/17 敦康、死去
この年の時点で、坂東は長年にわたる在地勢力と国衙との争いにより、
「すでに亡弊国なり」(『小右記』)と記されるような状態に
1019
3/21 道長、病により出家
※法名:行観(後に行覚)
4/10 延子、死去
→敦明退位後の心労か
9/29 道長、東大寺で受戒し、興福寺・春日社を参詣する(『左経記』)
12月 藤原頼通、摂政を辞し、関白となる
刀伊の賊(女真人)、対馬・壱岐・筑前に来寇する
→藤原隆家・大蔵種材ら、これを撃退する
1020
3/22 無量寿院(むりょうじゅいん・中河御堂・法成寺(ほうじょうじ))落慶供養
9月 菅原孝標女、『更級(さらしな)日記』を著す
9/17 菅原孝標(たかすえ)一行、上総国府(千葉県市原市)を発つ
12/2 菅原孝標一行、京に到着する
12/14 道長、延暦寺で廻心菩薩戒を受ける
この年、源師房、藤原頼通の養子となり(この時、「源姓」を賜る(村上源氏))、
頼通に実子が誕生するまでの間、一時摂関家の後継者と目される
→道長流と村上源氏の密接な関係の始まり
1021
12/3 源倫子(りんし)、無量寿院西北院供養を行う
この年、藤原公季、太政大臣となる
1022
7/14 法成寺金堂供養
※この時、「無量寿院」を「法成寺」に改める
大仏師定朝、法橋に叙せられる
1023
3/10 法成寺万燈会(ばんとうえ)が行われる(『日本紀略』、ただし、『栄花物語』では4月10日)
5/28 道長、法成寺阿弥陀堂で逆修(ぎゃくしゅ)法事を行う
※逆修:生きている間に死後の菩提を祈る仏事
7/16 逆修、結願
10/17 道長、高野山参詣
12/23 道長、法成寺新堂薬師堂に仏像を安置する
1024
3/21 法成寺の僧房が焼亡する(『栄花物語』)
6/26 法成寺薬師堂供養
1025
8月 赤裳瘡(あかもがさ)が流行する
8/3 親仁(ちかひと・後冷泉)、生まれる
8/5 女喜子、死去
1026
3/20 法成寺西堂落慶供養
1027
5/5 法成寺の丈六阿弥陀堂仏像供養
9/21 けん子、死去
12/4 藤原道長、死去
→藤原氏退潮の始まりとも
※道長一族の墓は、32または33号墓か(『道長と宮廷社会』(大津透))
※摂関政治は、天皇・中宮・その父親の三者(時には母后をも含めた四者)の意見が常に一致し、
太政官政治を円滑に掌握して摂関に無理な欲望がないということが運営上の絶対条件であった。
そして、その模範例が道長期であった(山中裕)
12/7 固関
1028
平忠常の乱(~37)
→平忠常(村岡良文(よしぶみ)孫)、安房国守・安房守惟忠(これただ)を殺害する
伏線:上総・下総・武蔵等に勢力を伸ばす平良文の子孫
VS
常陸に地盤を築き勢力拡大を模索する平貞盛流という構図
忠常(良文流)、平惟基(維幹)を「先祖の敵」と呼ぶ。私戦的側面が強かった。
cf.陸奥介忠頼VS平繁盛
↓
6月 平直方(なおかた・貞盛流(貞盛孫))・中原成道(なりみち)を追討使に任じる(2人とも検非違使)
※平忠常:下総・上総に地盤を持つ在庁官人で、
課税の収納をめぐる受領との対立が原因で反乱に至ったか
※平直方:源頼義の騎射の技術に感心し、娘を頼義に嫁がせ、義家・義綱・義光の三子を得る。
源頼義―――――平直方女
↓
↓
義家ら
従軍する坂東武士の多くが坂東平氏であり、実態は「源平武士団」ともいえる
相模国鎌倉郡の屋敷も頼義に譲ったことで(東国における軍事的基盤を継承)、鎌倉を本拠とした
頼義・義家父子と相模武士との結びつきが始まることとなる。
→以来、義親(よしちか)・為義(ためよし)・義朝と五代にわたり鎌倉に居住して
坂東武士の棟梁としての地位を固めていく
なお、直方は伊豆・北条氏の祖先とされる
8月 平忠常追討使、京を発つ
1029
2月 東海・東山・北陸諸国に「忠常追討に協力せよ」との官符が発せられる
12月 中原成道、追討使を解任される
→追討使内の内輪もめが原因か
1030
3月 新たに下向した安房守藤原光業が印やく(いんやく)を捨てて京へ逃げ帰る
↓
後任として、平正輔(まさすけ・維衡の子)が任じられるも(同じ貞盛流の直方支援のための人選か)、
伊勢で平致経(むねつね・致頼の子)と私闘となり、東国に下向できず(維衡VS致頼の延長線上)
1031
3月 源頼信、甲斐守として着任する
3月 下総国から、「平忠常追討により国の荒廃が著しく、安房・上総・下総3ヶ国は既に
亡国となっている」との報告が届く(『小右記』)
→反逆者追討によって、かえって国が荒廃するという皮肉な事態に
↓
改めて、源頼信が追討使に任じられ、平直方らは京へ召還される
↓
頼信、忠常の子を従えて京を発つ
↓
頼信軍が甲斐国に来た時、出家して常安(しょうあん)と名を変えた平忠常が降伏してくる
↓
忠常、京への護送の途中、美濃で病死し、首のみ京に送られる
→源頼信、平忠常の乱を平定する(良文流を傘下に収めたことに)
↓
忠常の子・常昌(つねまさ)ら、なお抵抗を続けるも、朝廷では沙汰やみとなる
→追討による関東の荒廃や、忠常の死による服忌(ぶっき)等が原因か
→忠常の子孫が生き残り、その支配圏を維持できたことが後々意味をもってくる
※忠常降伏に関し、かつて常陸で頼信・平惟基(維幹)に降ったから(『今昔物語』)、
今回も降ったとの解釈もある
※乱後、頼信は河内守となり、河内国古市郡壺井の里(大阪府羽曳野市壺井)を本拠として
河内源氏祖となる
→通法寺跡に、頼信・頼義・義家の墓あり
※平惟基:貞盛弟・繁盛次男で、貞盛の養子となり、国香以来の一族の本拠地・水守の館
(茨城県つくば市筑波)で勢力を伸ばす。その後、常陸大じょうとなり、
多気城(茨城県つくば市筑波の北方)に移り、水守大夫・多気大夫と称される。
後世、常陸大じょう氏を名乗り、この系統が常陸平氏と呼ばれることとなる。
1032
1033
1034
1035
1036 敦良親王践祚
→後朱雀
1037
1038
1039
1040 荘園整理令発布
→名制から別名制への大転換に対応するもの
1041
この年、大江匡房誕生
※『本朝神仙伝』で、「白箸翁(しろはしおきな・箸商の始祖とされる)」に言及している
→『白箸翁序(しらはしのおきなのじょ)』(紀長谷雄(きのはせお))から、
9世紀には既に京の御所東門前の市に箸屋があったことが窺われる
1042
この年、藤原師実、頼通の次男として生まれる
1043
この年、源頼信、頼義とともに、観音堂(後の通法寺)を建立する
→代々、河内源氏の氏寺となる
※頼信、藤原道兼・道長らに仕え、上野・常陸・石見・伊勢・美濃などの国司を歴任し、
最後に河内国司となって古市郡壷井里(壷井・通法寺)に居館を構え、河内源氏祖となる
1044
1045
親仁親王践祚
→後冷泉
10/21 新立荘園整理令発布
※荘園整理令を受け、兼光系統、北関東の在地領主化の道を選択したか
1046
1047
1048
この年、源頼信、壷井で死去
→遺言により、通法寺の巽(東南)に葬られる
1049
12月 源頼親、興福寺大衆を殺害した罪で土佐に流される
1050
この年、安倍頼良(頼時・初代忠頼孫)、衣川を越えて内国の磐井郡以南に進出し、国衙勢を破る
→前九年の役の前哨戦
※安倍頼良:奥六郡(岩手県胆沢・江刺・和賀・稗貫・紫波・岩手)郡司で、衣川以北・蝦夷の統括者
※国衙勢:陸奥守・藤原登任、秋田城介平重成(出羽)ら
※平重成:常陸平氏・平繁盛孫
1051
安倍頼時が叛く
→前九年の役
源頼義、陸奥守を拝任し(安倍頼良を抑える役割)、一族郎党を率いて現地に赴任する
※東国武士の棟梁・源頼義と、奥六郡の王者・安倍一族の、奥州の覇権を賭けた大戦争であり、
単なる辺境の俘囚の乱ではない(七宮)
東国(エビス)VS奥州(エミシ)
※鎮守府将軍補任のキャリアにおいて、平氏源氏いずれも秀郷流藤原氏に及ばない(野口実)
※三浦為通(ためみち・武蔵・村岡平氏)、陸奥守・源頼義に従軍して軍功をあげ、
三浦半島の御(三)浦郡を与えられたとの伝承あり
※鎌倉景通(かげみち)・景季(かげすえ)父子、頼義に従軍して軍功をあげる(『陸奥話記(わき)』)
※鎌倉党の子孫に、梶原景時・大庭景親・俣野景久(またのかげひさ)・
長尾○宗(たかむね)・長尾定景(さだかげ)らあり
※鎌倉・三浦以外の相模の有力者
・波多野氏:藤原秀郷後裔で、秦野盆地に勢力を伸ばす
・波多野支流:・河村氏(足柄上(かみ)郡山北町河村郷)
・松田氏(松田郷(同郡松田町))
・大友氏(大友郷(小田原市大友))
・中村氏(桓武平氏の流れをくみ、中村庄(小田原市中村原)に勢力を築く。12世紀半ばに
中村庄司宗平が史料に登場する。宗平子息に、土肥実平(どひさねひら・土肥郷(足柄下郡湯河原町土肥))・
土屋宗遠(つちやむねとお・土屋郷(平塚市土屋))・二宮四郎(二宮川匂(かわわ)庄(中郡二宮町))らあり。
・岡崎義実:宗平女婿・岡崎郷(平塚市岡崎)
1052
この年、大赦により、安倍頼良赦され、名を頼時と改め、頼義に奉仕することに
1053
平等院鳳凰堂完成する
源頼義、鎮守府将軍も兼任
1054
1055
この年、源義光、陸奥国鎮守府で生まれる(『佐竹家譜』)
荘園整理令発布
この年、東寺の五重塔、落雷により焼失する
1056
安倍頼良の子・貞任の殺傷事件をきっかけに、頼良(頼時)が再び叛く→源頼義、重任
1057
源頼義、河崎柵(岩手県磐井郡)で安倍軍に敗れる
源頼義、安倍頼良(頼時)を討つ
1058
1059
1060
1061
源頼義の任期満了に伴い、朝廷は高階経重を陸奥守に任じるも、従軍していた東国武士や
陸奥国内の有力土豪が頼義の命しか聞こうとしないため、頼義がそのまま追討を続行することに
1062
5月 源頼義、出羽国の清原氏(清原光頼・武則兄弟)の援助(援軍1万)を得て追討再開
※この時、(宇都宮)宗円が源頼義に同行し、
下野国二荒山(ふたあらやま)神社で調伏祈祷(ちょうぶくきとう)を行う
↓
厨川で安倍貞任を殺害し、弟・宗任を降す(前九年の役終結)
※源頼義:正四位下・伊予守
※清原武則:従五位下・鎮守府将軍となり、安倍氏の後の陸奥・出羽の主に
→俘囚主と呼ばれた武則が鎮守府将軍に就任したことが、奥州独立の呼び水となる(七宮)
※この時、安倍貞任の子・高星丸が津軽・藤崎に逃れて津軽安藤氏祖となったとの伝承あり(七宮)
※この時、調伏祈祷の功により、下野守護職に補任されるとともに、二荒山神社の社務職にも任じられる
→「宇都宮座主三郎」と称する
藤原鎌足
↓
↓後裔
↓
藤原粟田関白道兼(みちかね・御堂(みどう)関白道長兄)―――
↓
兼隆―――
↓
兼房―――
↓――――
↓ ↓
兼仲 宗円
(兄) (弟・宇都宮座主)
(『尊卑分脈』)
9/11 藤原師通、師実長男として生まれる
※師通:大江匡房・惟宗孝言(だいがくのかみ)に学問を学び、抜群の才能を誇ったとされる
9/17 源頼義、火攻めにより厨川柵(安倍氏最後の砦)を攻略し、安倍氏を滅ぼす
※藤原経清、赤錆の鈍刀で首をこすり斬られる
安倍頼時
↓
↓
――――――――――――――――
↓ ↓
(秀郷流) ↓ ↓
藤原経清―――――有加一乃末陪(あるかいちのまえ・妹) 貞任(兄)
処刑 ↓ 清原武貞(武則嫡男)の後妻とされる
↓
清衡(奥州藤原氏初代)
→母の再嫁により清原家に組み込まれることに
藤原氏と蝦夷の棟梁の血を受けることに
※平泉藤原氏、奥羽全土と、北海道・北千島・カラフトに及ぶ広域交易を支配する
→津軽安藤一族の歴史は、これを引き継ぐ形で展開されていく(七宮)
※安藤:安倍+藤原
1063
2月 安倍貞任の首、京に届けられる
※ほどなくして、『陸奥話記(むつわき)』(前九年の役の従軍記のようなもの)が書かれている
※京の公卿ら、以後、北奥以北の人間集団を「エゾ」と呼び始める
※『水左記』(源俊房)、『中右記』(中御門宗忠)、『康平記』(平定家)などに詳しい
源義家、従五位出羽守拝任
1064
源頼義、京都に凱旋
源義家、越中守への転任を朝廷に請う(結果は不明)
※義光も父とともに上京し、新羅大明神の社前で元服する
→「新羅三郎義光」と名乗る
1065 荘園整理令発布
1066
1067
12月 藤原頼通、関白を弟・教通に譲る
この年、清原真衡(貞衡)、鎮守府将軍に任じられる
1068
藤原教通、関白となる
※教通の後任争い
師実 VS 信長
(後三条調停)
師実に対する関白譲渡を求める頼通の嘆願を拒否する一方で、
師実の養女・賢子と皇太子・貞仁(まさひと)親王の婚儀を認める
→摂関家の内紛をことさら煽ったか(元木)
尊仁親王践祚
→後三条
宇多以来、11代170年ぶりの藤原氏と外戚関係にない天皇(宮廷の政局に大転換)
温和な後冷泉を軽く扱う藤原頼通を見てきた後三条は、頼通と鋭く対立することとなる
藤原教通が関白の地位にあったが、貴族の心は頼通・教通兄弟から離れ、
後三条を藤原氏専横により乱れた朝廷を正す救世主と感じたという
cf.藤原氏としては、再び後三条に后を送り込み、皇子誕生を待って後三条に退位を迫りたい
↓
反藤原氏勢力、いち早く天皇の周りを固め、藤原氏と対峙する構図に
↓
両派、自派の者をより多く公卿に送り込もうとする
(頼通時代、公卿の多くは御堂流(道長の子孫)で占められていた)
~後三条の政策~
・門閥主義による先例重視政治を刷新するため、政治運営に中流貴族の参加を求める
→大江匡房(まさふさ)・藤原実政(さねまさ)ら受領層や学者らにも活躍の場が与えられた
「延久の善政」(『古事談』)
・摂関の指導による宮廷行事(藤原公任(きんとう)の『北山抄(ほくざんしょう)』)から、天皇中心の宮廷行事へ
→後三条自ら、『後三条院年中行事』をまとめる
・醍醐・村上の天皇親政(延喜天暦の治)に倣い、大掛かりな大井川行幸(みゆき)や
殿上歌合(てんじょううたあわせ)を行う
→華やかな行事を通じて、「延喜天暦の治」を自分が復活させると主張したとされる
・1070年 重量を基準とする標準価格を定める
→京の物価の乱高下が庶民の生活を苦しめていたため、絹や麻布の品質の統一を図った
・1072年 宣旨枡(せんじます)を制定する(→室町時代まで重んじられる)
→私枡(わたくします)が経済を混乱させていたことを正す(藤原氏は庶民の暮らしよりも自家の安泰)
(宣旨枡に合わない枡を用いることは天皇の命に背く大罪とされた)
1069
2月 荘園整理令発布
閏10月 後三条、記録荘園券契所を置く
→荘園の証拠文書を審査
1070
この年、日野資業(すけなり・藤原北家内麿(うちまろ)子孫・日野氏祖)、死去
※日野氏:資業が「日野三位」と号したのに始まるとされる。本貫地は、現・京都市伏見区日野とされる。
学問をもって朝廷に仕える家系で、文筆系の官僚を輩出していく
この年、後三条、重量を基準とする標準価格を定める
この年の時点で、源義家は下野守として陸奥守・源頼俊を援けて
藤原基通を抑えていることが確認される
1071
この年、篠村八幡宮、勅宣により河内国・誉田八幡宮から勧請され創建される
この年の時点で、26人の公卿のうち9人が源氏(醍醐・村上の公家源氏)、10人が御堂流となり、
藤原氏が退潮傾向にある
1072
後三条、宣旨枡を制定する
後三条、貞仁親王(白河)に譲位するとともに(退位後も後三条上皇が政治を執る)、
摂関家と関係のない実仁(さねひと)親王を春宮に擁立する
→賢子との婚姻を認めながら、摂関家の外戚復活を阻止したことに
※後三条の退位
・「後三条は院政の前例を作るために退位した」説(『愚管抄』)
・病気説
後三条、再び摂関家が政治を握ることがないよう処置する必要性を感じる
→「母の政治」から「父の政治」への移行
※白河上皇の「天下三不如意」(『源平盛衰記』)
・賀茂川の水
・双六の賽
・山法師(白河、藤原氏を抑えるために、山法師の権威を利用していた)
この年の源頼義(河内守)寄進状
→「篠村八幡宮修営のため篠村庄を寄進する」
1073
1074
1075
9月 藤原教通、死去
→この時、中宮・賢子の白河に対する嘆願により、
左大臣・師実が内大臣・信長を抑えて関白に就任する
→師実、関白には就任するも、内紛の過程で摂関の人事権は天皇に掌握され、
摂関家が天皇への従属の度合いを強めた
(師実、天皇との協調路線を歩むことに)
この年、白河、荘園整理を実施する
1076
1077
この年、源義業、生まれる
→父・義光が京官であったため、幼少期を京で過ごす
この年、白河、白河の地に法勝寺(ほうしょうじ)を建立する
1078
11月 藤原忠実(ただざね・正三位権中納言兼左近衛大将(しょうさんみごんのちゅうなごんけんさこのえのたいしょう)・
師通(もろみち)嫡男・母は頼宗(よりむね)流右大臣・藤原俊家(としいえ)女・全子)、橘俊綱
(たちばなとしつな)邸で生まれる
→幼少から、祖父・師実(もろざね)の養子として成長する
※忠実の前半生:白河院政との対峙
後半生:保元の乱
この年、『後拾遺和歌集(ごしゅういわかしゅう)』の編纂が開始される
→1008年の『拾遺和歌集(しゅういわかしゅう)』以来、久々の勅撰和歌集で、
摂関全盛期に行われなかった勅撰和歌集編纂の再開という意義あり
1079 源義家、源重宗の追討を命じられる
1080
1081 源義家、延暦寺を攻めた園城寺の悪僧の逮捕を命じられる
1082
1083
3/7 藤原忠実、着袴(ちゃっこ)の儀式
この年から後三年の役(~87年)
清原真衡(清原嫡流)、養子・成衡の結婚式で吉彦秀武(きみこのひでたけ・真衡叔父)を
ないがしろにしたため、秀武が憤慨して清衡・家衡を誘って挙兵
(背景に、真衡を中心とする宗家支配に対する他の一族が不満があったとも)
→清原氏の内紛に義家が介入
↓
清衡・家衡は義家に降伏する
出羽に向かっていた真衡は「急死」したとされる(暗殺説も)
↓
義家、奥六郡を二分し、
・南(胆沢・江刺・和賀)を清衡に
・北(稗貫・紫波(しわ)・岩手)を家衡に与える
→これに不満の家衡、清衡館に泊まった際に火を放ち、清衡一族を襲う
→清衡は逃れるも、妻子は皆殺しに
↓
義家、清衡から報を受け、沼柵(ぬまのさく)に家衡を攻めるも、大敗を喫する
→これを受け、清原武衡(武貞弟)、家衡に与することに決し、両者金沢柵に籠る
※相武(そうぶ)の武士の多くが源頼義に従軍し、源氏と相武武士との主従関係が成立する
※勝利後、清衡が清原氏の遺産を継承し、奥州藤原氏初代となることに
cf.海道平氏(平安忠の流れ)による清原氏乗っ取りに、清原一族が反発して起きた戦いとの理解も
この年、源義家、陸奥守拝任し、鎮守府将軍も兼任して現地に赴任
1084
8/22 藤原忠実、童殿上(わらわでんじょう)を許される
同日、大江匡房により「忠実」の名字が選ばれる
1085
実仁親王死去
↓
11/26 白河、喜んで子の善仁親王を立太子し、即日譲位する
→堀河(8歳・実仁に心を寄せる貴族の妨害を恐れたか)
↓
白河、退位をきっかけに、強力な指導力を発揮し始める(通説)
→白河院政
※後三条は、実仁死去の際は弟・輔仁(すけひと)を即位させるよう命じていたが、白河はこれを破った
※外祖父・藤原師実(善仁母・賢子の養父)、摂政に就任する
→道長以来、久々の外祖父返り咲き
cf.実子を強引に即位させて父院としての権力を獲得するための譲位であって、
白河院政の本格開始はまだ先(元木)
この年、興福寺、寺内に大乗院・一乗院の分派を置く(『興福寺略年代記』)
※長谷川一族、否応なく衆徒の中に置かれていく
→平田党などとともに大和六党として顔を出す(重松)
1086
11月 白河天皇退位し、院政へ移行
※白河院政
・院の整備
→院近臣が勢力を伸張する
・経済的事項は天皇によらず、全て院の独断
→院近臣の立案に基づく
・官吏の任命
白河上皇→依頼→天皇→依頼→公卿
↓ ↓任命 ex:権中納言
→→→→→→→→→→→→→
ex:院司
・警護
→院庁に親衛隊として北面の武士を置く
院は受領層を全て自派に引き込む
・仏教統制
1075年に白河が法勝寺を建立する(六勝寺の1つ)
→皇室支配を支えるための様々な修法が行われる
・熊野三山保護
→白河、生涯12回も熊野詣を行う
・天皇家が多くの荘園を把握することを最も望んだが、皇室領の設定は後日の課題とした
(荘園が欲しくて荘園整理を行ったとの批判を回避)
・白河院政の功績は、摂関期に中央から離れた地方武士(ex:平将門・平忠常・前九年の役)の心を、
再び天皇家に引き付けることに成功した(武光誠氏)
1087
8月 京都の新羅三郎義光、兄・義家を援けるために陸奥に下向することを白河上皇に願うも許されず、
やむなく左兵衛尉を辞して金沢柵の義家のもとに馳せ参じる
→無許可で奥州に下向したため解任されたというのが真相か(『為房卿記』)
9月頃 源義家・清衡勢、家衡勢が籠る金沢柵(かねざわのさく・秋田県横手市金沢)を攻める
→三浦為継・鎌倉景政らの奮戦が伝えられる(『奥州後三年記(おうしゅうごさんねんき)』)
11/14 金沢柵、兵糧攻めにより落城
→後三年の役、鎮定
※家衡・武衡、ともに斬られる
※義家、朝廷に前九年の役の際と同様、事後承認の官符を申し入れるも、今回は認められず
→朝廷は、義家が清原家の内訌に勝手に介入した私戦と判断した
↓
朝廷、清衡の清原家相続を承認する
→清衡、清原家の遺産を義家に侵されることなく手中にし、さらに、
出羽の統治をも任されて奥州の頂点に
1088
1/21 藤原忠実、元服し、正五位下(しょうごいのげ)に叙せられ、禁色(きんじき)の着用を許される
※天皇の子・孫の源氏と、現職の摂関の子息以外で、従五位下(じゅごいのげ)より上から
スタートしたのは初めて
(皇女を母とする公季(きんすえ・藤原師輔子)を除く)
→摂関の権威が嫡孫にまで及ぶようになったことを示す
2/18 藤原忠実、舞を習う
3/23 藤原忠実、石清水臨時祭の舞人(まいびと)を務める
※この時、師実に仕えていた多田源氏・源頼綱(よりつな)が忠実に歌を献じている
→頼綱、師実に仕え、摂関家に自家の運命を託す
(多田源氏との忠実晩年まで続く主従関係の始まり)
朝廷、藤原基家を陸奥守に任じて義家と交代させる
1089
この年、藤原忠実、任子と結婚する
→祖父・師実にならい、摂関家と村上源氏の婚姻関係を継続
1090
1091
1/13 藤原忠実、参議を経ずに従三位(じゅざんみ)となり、公卿に列せられる
6月 源義家と義綱、河内の所領をめぐり京都で武力衝突の危機に
→藤原師実、白河院の意見を仰ぎ、「国司随兵の入京を止めよ」との
院の命令が下される(『後二条師通記』)
この年、白河、諸国の百姓が義家に私田を寄進することを禁じる
→義家の台頭を踏まえ、白河・公卿らが義家を政治的に封じ込め始める
この年、藤原清衡、関白・藤原師実に馬を献じて中央に知られることとなる
→奥州の実質的統治者として公権と結び、以後、度々朝廷に贈物を献上し、
平泉を京と結びつけ、京の様子にも通じるようになる
※清衡、この頃から平泉の町づくりに着手する
→祖父が前九年の役を招いたのと異なり、合法的に衣川以南に進出した
1092
1/25 藤原忠実、参議を経ずに権中納言に任じられ、職事公卿(しきじくぎょう)となる
→師実の下で政務参加を始める
2/6 藤原忠実、春日祭の上卿を務める
この年、源義光、磐城国菊田荘をめぐり白河寵臣・藤原顕季と争う(『古事談』・『十訓抄』)
源義綱、陸奥守に任じられる(既に藤原氏の支配が確立し、源氏の入る余地なし)
源義家の構立した荘園を停止すべき宣旨がだされる(義家の経済力削減)
この年、朝廷、源義家への土地の寄進を禁じる
宮座の初見
1093
2月 白河、篤子内親王を堀河の中宮とする(cf.1098年10月)
この年、出羽国で平師妙・師季父子が叛乱を起こしたため、
陸奥守・源義綱に追討命令がだされる
→白河、意図的に義家を乾す
(義家・義綱を競わせる白河の政治手法の現れ)
1094
3/28 藤原忠実、左近衛大将(さこのえのたいしょう)となる
→源氏を除けば、おおむね摂関家の嫡男が補任されるのを慣例とする
源義綱、師妙・師季の首を持参して上京し、美濃守を拝任
この年、藤原清衡、居館を江刺郡の豊田館から西磐井郡の平泉に移す
この年、藤原師実、関白を長男・師通に譲る
→1017年の道長の頼通への摂政譲渡の先例に倣ったもの
※白河に負い目のない師通は、白河と対立的な政策をもとるようになる
→全盛期の摂関政治の復活を意図していたか(元木)
1095
10月 美濃守・源義綱に対する延暦寺・日吉(ひえ)神社の強訴が起きる
→関白・藤原師通、ほぼ独断で強訴撃退に踏み切る
※義綱が宣旨により延暦寺領荘園を収公した際の小競り合いで僧が死亡したため、
宗教的権威を背景に強訴した
この年、藤原忠実、師子との間に勲子(泰子・高陽院)をもうける
1096
8月 媞子(ていし)内親王、21歳で死去
白河―――――藤原賢子(けんし・中宮)
↓
↓
媞子内親王
8月 白河上皇、皇女・媞子(ていし)内親王の死を悼んで2日後に出家する
→受戒は受けず、法名も名乗らず
天皇に万一のことがあれば、自ら再び皇位につこうと考えたからとされる
1097
10/14 六条院落成供養
※六条院:媞子の御所を死後に仏堂に改めたもの
11月 平正盛、祇園女御と藤原為房・顕季の仲介で、所領の伊賀を六条院(ろくじょういん・京都市下京区六条)に
寄進して白河法皇に接近する
→伊勢平氏台頭のきっかけに
この年、藤原忠実、権大納言となる
この年、藤原忠通(ただみち)、生まれる(母は師子)
この年、醍醐寺の清さんずいに龍宮(せいりゅうぐう)、建立される
※現・清りゅう宮は、1517年に再建されたもの
1098
10月 草かんむりに以子(北家閑院流実季(さねすえ)女)、堀河に入内する
→外戚関係による摂関政治の継続が困難な情勢に
この年、放置されてきた源義家の処遇がようやく決まり、正四位下に叙され、
院への昇殿を許される
この年、源義家、武士として初めて院への昇殿(殿上人(てんじょうびと))を許される
1099
6/28 関白・藤原師通、急死
※摂関政治復活の可能性が消滅し、院政成立の一因となったとされる
※強訴撃退の際の神人殺害の祟りとも(『平家物語』・『愚管抄』)
→以後、院や貴族が宗教的権威に弱腰となったことで強訴がますます激化し、
貴族らは武士に防御を委ねることとなる
8/28 藤原忠実、内覧となる
→内覧止まりとされ、摂関が断絶
※以後、摂関よりも弱い立場から政務に参加することになる
→院への従属と、白河院の広範な国政進出につながることに
この年、関白・藤原師通(もろみち)、死去
→長男・忠実、内覧・氏長者となる
※白河を抑えられる人物がいない状況に
白河、荘園整理を実施
11世紀頃、沖縄各地に「按司(あじ)」と称する族長的支配者が出現する
※尚巴志(しょうはし)による統一国家(三山(さんざん)統一)が成立するまで対立抗争を続けることに
→「按司時代」
※三大按司
・今帰仁(なきじん)按司:今帰仁城(北部)
・浦添(うらそえ)按司:浦添城・首里城(中部)
・大里(おおざと)按司:高嶺(たかみね)城(南部)
※南部・佐敷(さしき)按司の思紹(ししょう)・巴志(はし)父子によって統一国家が形成されることに
※初期の按司は、日本の古代における土豪的性格のものであったが、14世紀頃になると
中世の諸侯としての支配者に変質を遂げていく
1100
この年、藤原忠実、右大臣となる
※左大臣:源俊房
内大臣:源雅実
1101
1月 藤原師実、重病に陥る
2/13 藤原師実、宇治の御所僧都沢房で死去
※栗小馬山(くりこまやま・栗駒山)に葬られる
4/25 藤原忠実、法成寺(ほうじょうじ)と宇治平等院の大改修を命じる
※この時の改修以来、平等院では河内玉櫛荘(たまぐしのしょう)で生産された瓦が用いられるようになる
→この時、鳳凰堂が現在の姿になったと推定される
1102
7月 伊勢神宮放火事件
→堀河、院の反対にもかかわらず、相撲を停止する
※成人に達した堀河の、白河院に対抗した親政の動き(院との緊張が高まる)
1103
12月 藤原忠通、昇殿し、大江匡房が「忠通」の名を選ぶ
1104
1105
2月 源義光、朝廷から上洛を命じられる(『殿暦』)
※義光、この頃は常陸国佐竹郷付近に居住していたか
※義光、磐城菊田荘と常陸依上保に地盤を固めた上で、久慈川沿いに南下して山田川沿いの
金砂(かなさ)郷(茨城県久慈郡金砂郷町)、佐竹郷の馬坂城(茨城県常陸太田市)付近まで進出する
12/25 藤原忠実、関白に就任する
藤原貞信(さだのぶ・道長の曾孫)、八溝(やみぞ)山の凶賊を退治した功により
那須郡に所領を与えられる
→那須氏祖(『那須系図』)
※後に那須与一宗隆を輩出
1106
6月 源義光、上総介平重幹(大じょう平氏一族)と組んで、義国(義家三男)と戦う(『永昌記』)
→義国が下野から常陸に進出して義光らと戦ったということか(七宮)
※源義国:義家が後三年の役に出陣した際、下野国足利荘の足利基綱女との間にもうけた子で、
この地に育って足利式部と称する
7月 源義家死去
→源氏、凋落へ
1107
7/19 堀河崩御
→白河、孫の宗仁(むねひと)親王(5歳・鳥羽)を即位させ、自らの「治天の君」の立場を固守する
(本来の皇位継承者・輔仁は、再び皇位を逸したことに)
※直系の子孫が皇位につけば、白河が父権の影響力を維持できる
※治天の君:天皇家の家長権
※藤原忠実、摂政となる
→白河の信任厚い権大納言・源俊明(源高明の子孫で、醍醐源氏)の推挙が功を奏し、
権大納言・藤原公実(きんざね・九条右大臣藤原師輔子で、閑院(かんいん)流)との争いに勝利
(俊明の論理は、「摂政の地位は外戚とは関係ない」というもの)
→以後、忠実の子孫が摂関に任命されるようになり、摂関継承の保証を得た反面、
天皇の尊属としての権威を喪失し、単なる臣下に転落した。さらに、院から忠実が
摂政に補任されたことで、人事権を通じた院への従属が決定的となる。
人事権喪失により中・下級貴族や武士が離反していき、儀式の遂行が困難となる。
(元木は、この時から白河院政が本格的に始まったと理解する)
※閑院(かんいん)流:太政大臣・公季(きんすえ・兼家弟)を祖とし、「閑院」は公季の居所に由来する名
※この時、白河は藤原忠実に娘・泰子(たいし)を鳥羽に入内させるよう命じたが、忠実は固く辞退したとも
源義親(よしちか)、隠岐配流(対馬守在任中に官吏を殺害した罪)の途中、
出雲国で目代を殺害し、出雲に潜伏する
→無名の平正盛に源義親追討が命じられる
※平正盛:京・地方の盗賊等を鎮圧し、院の後ろ盾を得て勢力伸張する
12月 平正盛、出雲に出陣する
白河、荘園整理を実施
鳥羽、わずか5歳で即位する
1108
1月 平正盛、源義親を討つ
→白河、正盛を但馬守に任じる(栄典)
→「源氏から平氏へ」を人々に印象付ける象徴的事件
1109
2/3 源義忠、何者かに夜討ちをかけられる(義明の命を受けた滝口季方の犯行か) cf.義光説も
→源為義(14歳)、義綱追討使に起用される
→義綱一家滅び、為義が嫡流を継ぐことに
2/5 源義忠、死去
※源氏衰退
義家:死去
↓
義家の後継と目されていた義親:追討
↓
義親の後継と目されていた義忠:夜討ちの傷で死去(源氏の内輪もめか)
1110
この年、藤原季清、本拠地・紀伊国那賀郡名手郷(和歌山県那賀町名手市場一帯)に
大伽藍を建立する
→季清、伽藍建立の願文を大江匡房に依頼する
※『江都督(ごうととく)願文集』に収められている
※紀伊国を拠点に都の武者として活動する秀郷流藤原氏は、「佐藤氏」と称される
この年、源清光、常陸国で誕生する
義光――――――――――
↓
↓
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――-
↓ ↓ ↓ ↓
↓ ↓ ↓ ↓
源義清――――――――源業宗女 義業――― 平賀盛義 福士実光
(武田冠者) ↓ ↓ (平賀氏祖) (福士氏祖)
↓ ↓
清光―――――― 佐竹昌義(佐竹氏祖)
(逸見冠者) ↓
↓ 11人の子、甲府盆地に分布し、甲斐源氏一族を構成していく
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
光長(みつなが) 信義(のぶよし)――――――――――――― 安田義定 加賀美遠光 浅利遠義
→長子・逸見氏 →次男・武田氏 ↓ (安田氏祖) (加賀美氏祖)(浅利氏祖)
甘利荘(韮崎市)を本拠 ↓ ↓ ↓
↓ 義資(よしすけ) ↓
―――――――――――――――――――――――― ――――――――――――――
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
信光(のぶみつ・五男) 一条忠頼 板垣兼信 逸見有義 大弐局 南部光行 小笠原長清 秋山光朝
→八代郡石和(笛吹市石和町)を本拠とし、 (光長養子)
石和五郎信光と称する (南部氏祖)(小笠原氏祖)(秋山氏祖)
兄の失脚で武田惣領に就き、義光以来の
射礼(じゃらい)と家宝の御旗・楯無を相伝する
父・信義死後に甲斐国守護に任じられる
※小笠原長清:頼朝から目をかけられ、阿波国守護に任じられる
1111
1112
1113
3月 平忠盛(ただもり)、盗賊・夏焼大夫(なつやきたいふ)を捕える
→忠盛、従五位下に叙せられる
4月 興福寺と延暦寺の争いで、延暦寺衆徒が蜂起する(永久の強訴)
→平正盛・源為義らが同寺衆徒の入京を防ぐ
※円勢(えんせい・延暦寺僧)の清水寺別当就任に対する抗議
→以後、院による人事介入を原因として、興福寺は再三蜂起を繰り返すこととなる
氏長者の頭越しに対決を繰り返したため、摂関家の権威を著しく損なうこととなった
10月 輔仁親王失脚
→輔仁と村上源氏(仁寛(にんかん)・千手丸(ともに左大臣・俊房子))が共謀して、
鳥羽の殺害を計画したとの密告があったため
↓
仁寛・千手丸ともに配流され、皇室内に、白河に対抗する勢力が見られなくなる
輔仁・俊房も謹慎し、政治生命を絶たれる
※白河独裁により、鳥羽の補佐役としての藤原忠実の比重が低下し、
代わって興福寺が対立者として際立ってくる
※1113年頃から、白河院と藤原忠実の対立が目立ってくる
(それ以前は、忠実の従属により協調が保たれていた)
1114
この年、藤原忠実、宇治の富家殿(ふけどの)を修理し、池殿を再建するなど、
宇治に対する関心を高める
→1115年以降、頻繁に宇治に赴くようになる
※忠実、忠通に摂関の譲渡を考え始めていたか(元木)
1115
この年、醍醐寺第14世座主・勝覚僧正、三宝院を創建する
※現・三宝院は、1598年に秀吉が再建したもの
※表書院:寝殿造りで、桃山時代の代表的建造物
※三宝院庭園:秀吉が醍醐の花見に際して自ら基本設計をしたとされる
1116
7月 興福寺大衆、讃岐守・藤原顕能の流罪を訴えて強訴する
この年、鎌倉景政、相模大庭郷(神奈川県藤沢市大庭)につき、
大庭御厨(現・藤沢市と同程度)として正式に承認される
→以後、鎌倉党は、大庭御厨を中心に勢力を伸張していく
1117
源義親、越後の豪族・平永基のもとに出入りしているとの風聞が流れる
1118
1月 白河、王へんに章子(しょうし・藤原公実(きんざね)女で、白河養女)を、鳥羽の中宮として入内させる
→待賢門院(たいけんもんいん)
5/24 千葉常胤誕生
常陸国に義親を名乗る男が現れる
1119
3月 上野国五千町歩の荘園を摂関家に寄進する動きを、院が禁止する
5月 平正盛、京都市中の強盗を逮捕する
→正五位下に叙せられる
6月末 顕仁(あきひと・崇徳)親王、生まれる
※『古事談(こじだん)』は、実は白河の子とする
年末頃 平正盛、九州の賊・平直澄(なおずみ)らを追討する
→従四位下に叙せられる
1120
5月 藤原頼長、生まれる
※母は、忠実家司・土佐守藤原盛実(もりざね・藤原氏高藤流の傍流)女で、
母の身分という点で兄・忠通に格段に劣る
10月 白河、熊野詣に赴く
→鳥羽、白河の留守中に自ら関白・忠実に泰子の入内を申し入れ、
忠実は喜んで院に無断で泰子の入内の準備を始めた
※天皇の后妃の決定は王家の家長である院の権限
11月 白河、泰子入内の話を知って怒り、関白・藤原忠実を解任する
→藤原忠通(ただみち・忠実子)が後任の関白となる
※藤原忠実、以後、白河死去まで政界復帰果たせず
※この解任劇で、摂関家の権威は失墜する
1121
1/22 藤原忠通、関白となる
↓
以後、摂関家が表立って院を批判することがなくなる
→院の専制が確立していく
※以後、忠実は宇治での謹慎生活に入る
※忠実の宇治謹慎に伴い、宇治の都市化が進展したか(元木)
1月 鳥羽、藤原忠実の政界復帰を認める
→忠通(長男)と頼長(次男)の対立を生じることに
1122
この年、藤原秀衡、生まれる
1123
1月 鳥羽、何らの落ち度なく、白河の意向により強引に退位させられる
→白河が、成人した鳥羽が政治に口出しするのを避けたいと考えたとされるが、
これにより鳥羽の恨みを買うこととなる
→顕仁(崇徳)、わずか5歳で即位(院政にとって、幼帝を立てた方が都合がいい)
先年、常陸に現れた義親を名乗る男を、源仲正が捕えて京に送る(武名上げようとしたか)
1124
この年、中尊寺金色堂が建立される
1125
4/23 藤原忠通、弟・頼長を養子とする
1126
この年、中尊寺金色堂の落慶式が催される
→金色堂前で、藤原清衡が建立願文を読み上げる
この年、千葉常重、妙見堂を下総国海上から千葉郡に移す
1127
8/2 藤原忠実、宇治での籠居以来、初めて上洛する
この年、新羅三郎義光、死去
※常陸合戦後、京に戻り、近江国の所領を三井寺金光院に寄付し、その寺に住んでいた。
大津市の三井寺金光院に義光の墓あり。北の藤原氏、南の常陸平氏と結び、
磐城・常陸境界付近に基盤築く
※武勇よりも策謀家とのイメージがつきまとう人物だった(七宮)
この年、白河、荘園整理を実施
1128
この年、藤原忠実、平等院や鴨院の券文を忠通に譲渡する
→政界復帰を断念し、摂関家の中心的権限を忠通に譲ったかのような観あり(元木)
この年、藤原清衡、死去
→2代目:基衡
1129
1月 藤原忠通長女・聖子、崇徳に入内する
※賢子以来、約60年振りの摂関家からの入内
7/7 白河上皇崩御
→鳥羽院政へ
※死ぬまで「公領保護」の建前を守り続ける
↓
鳥羽、院政開始後間もなく、皇室領の設置に尽力するようになる
鳥羽、白河の意向により強引に后とされた待賢門院・璋子とその一族を政権から退け、
摂関家を自派に引き入れる
↓
鳥羽、白河の遺言に背いて高陽院泰子(藤原忠実娘)を妻とするも、皇女しか生まれず
↓
鳥羽、美福門院・得子を妻とし、躰仁親王(後の近衛)を生む
→待賢門院一派と美福門院一派との、深刻な対立が生じることとなる
9月 またも義親を名乗る男が現れる
※鳥羽院、自称・義親を宇治の富家殿(藤原忠実の別荘)に匿わせる
→鳥羽の白河に対する痛烈な批判であるとともに、忠実復権方針を天下に示したことに
10月 富家殿焼失
→自称・義親、鴨院(藤原忠実邸)に匿われることに
11月 鳥羽、愛妾・三条殿の後見である仏師・長円(ちょうえん・円勢子)を、
強引に清水寺別当に就任させる
→鳥羽院、興福寺僧による長円一行襲撃に激怒し、
源為義・光信ら検非違使を興福寺に派遣し、寺内で悪僧の追捕を強行する
→白河とは異なる強圧的姿勢
この年、平忠盛、瀬戸内海の海賊を追討し、武名を上げる
1130
6月 下総権介・千葉常重(つねしげ)、「相伝の私地」である相馬郡布施郷を
伊勢神宮に寄進して御厨とする
→本拠・千葉庄から遠いため、侵略の危険を感じたか
※相馬郡布施郷:小貝川以南手賀沼以北、北相馬と呼ばれる現・北相馬郡の西半分と、
中相馬と呼ばれる手賀沼以北の我孫子町全域か
※御厨:伊勢神宮の神領
10月 藤原頼長、五位中将となる
→師通以来、摂関家嫡流を象徴する地位
11/13 鴨院の自称・義親、美濃源氏・光信(みつのぶ)に暗殺される
12/30 源義清・清光(きよみつ)父子、在所・武田郷(茨城県ひたちなか市)で清光が
乱暴(ex:土地横領)を働いたとして中央に訴えられる
→父子、常陸国を追放され、甲斐国市河荘(山梨県西八代郡市川大門町)へ配流となる
※その後、平塩岡(ひらしおおか・市川三郷町)の義清館跡を拠点として勢力を拡大したか
※源頼信・頼義・義光が「甲斐守」を経験しており、父子にとって深刻とまでは言えなかったか(高野)
※山梨県市川三郷町に、武田義清移住地の記念碑あり
※武田家発祥の地:さんずいに秋尾(ぬまお)神社(武田大明神・茨城県ひたちなか市)
→源義清、常陸武田郷(茨城県ひたちなか市)に住んで、武田冠者(かじゃ)を称していた(武田姓の始まり)
30年代から上野国で荘園公認が始まる(多くは50年代以降)
1131
11/17 鳥羽、藤原忠実を院御所に招き、12年振りの対面を果たす
※1131年から35年の幅で諸説あるも、佐竹昌義(佐竹氏祖)がこの時期に佐竹郷に土着し、
佐竹冠者と称したとされる(『佐竹家譜』)
※常陸太田・天神林の馬坂城を本拠とした
※源氏凋落・白河院政終了という時代の転換期を見据えた上での地方移住か(七宮)
※その後、常陸平氏が京の平氏の家人と化していく流れの中で、
常陸平氏と縁の深い昌義も平氏に接近していったか(七宮)
1132
1/3 院における拝礼で、藤原忠実が公的儀式に復帰を果たす
1/14 藤原忠実、12年振りに内覧に復帰する
→忠通の関白職、有名無実に
この年、平忠盛、鳥羽上皇のために得長寿院を建立し、内昇殿を許される
1133
6月 泰子、鳥羽院に入侍
→以後、院と藤原忠実・頼長を仲介することに
※鳥羽院自身が土御門東洞院邸の泰子を訪れるという異例の形態
→入内を禁じた白河批判と忠実との提携明示であるとともに、
白河院の後ろ楯で後宮を牛耳ってきた待賢門院・○子の抑圧が狙い
この年、法然、現・岡山県久米郡で生まれる
※法然15歳の時に、比叡山に登り仏道修行に励む
→専修念仏へ
この年、源義業、死去
1134
※1134年頃、鳥羽、美貌と評判の得(とく)子(藤原長実(ながざね)女・美福門院)を入内させる
1135
2月 千葉常胤、相馬御厨の下司職を父から譲られる
12/4 美福門院・得子、叡子内親王を生む
→高陽院の養女に
平忠盛、再び山陽・南海等の海賊を追討(→瀬戸内海地方に勢力を伸張していく)
1136
7月 千葉常重、公田官物の未納により国司に召籠(めしこ)められる
→国守・藤原親通(ちかみち)、この未納を口実に、目代・紀季経に命じて
「未進官物の代わりに、相馬・立花両郡を親通に譲る」旨の証文を作らせ、常重の判を責め取る
※藤原親通:藤原北家・師輔(もろすけ)から分かれた末流
この年、藤原頼長、17歳で内大臣となる
※忠通(19歳)、忠実(21歳)を凌ぐ最年少での大臣昇進
→摂関家の後継者と目されていたことによる
cf.父・忠実の偏愛によって頼長が強引に摂関の座を望んだとする『愚管抄』の解釈は誤り(元木)
1137
1138
1139
5/18 美福門院・得子、躰仁(なりひと)親王を生む
7月 泰子、院号を宣下され、高陽院(かやのいん)となる
この年、鳥羽、躰仁親王(生後3ヶ月)の立太子の儀を行う
→宣命では、躰仁を「崇徳の皇太弟」としている
1140
9/29 藤原忠実、道長・頼通・師実と同様の地位・名誉を得たことに
満足する述懐を述べる(『中外抄』)
1141
この年、藤原宗忠、死去
※宗忠:白河院政期から藤原忠実に近侍していた
この年、美福門院・得子、皇后となる
→院近臣・諸大夫(しょだいぶ)家出身の初めての皇后であり、
摂関家・閑院流に代わる新たな外戚が出現したことに
この年、鳥羽、崇徳(23歳)を譲位させて躰仁親王(2歳)を皇位につけ、出家する
→近衛
(美福門院一派の勢力が高まる)
※崇徳が皇統から外れたため、忠実・忠通らの外戚復活が不可能となる
※立太子の際の宣命により(養子であるはずの近衛が「皇太弟」とされていた)、
崇徳は近衛の父として院政を行えなかった
→当時、天皇の直系尊属のみ院政をなしうるとされており、鳥羽は崇徳の政治生命を絶ったことになる
やがて、崇徳の不満が保元の乱の遠因に
1142
8月 藤原忠実、源為義に命じ、興福寺の悪僧を奥州に配流させる
※忠実が、忠通の生ぬるい興福寺政策に業を煮やしたもの(元木)
※長者の権限を侵害し始めた忠実に対し、忠通は次第に不満を抱いていったか(元木)
1143
4/1 藤原基成、陸奥守に任じられる
6月末 藤原基成、鎮守府将軍を兼ねる
この年、源義朝、千葉常重から相馬郡に関する譲状を責め取る
→上総介・常晴・常澄(つねずみ)父子と近い関係の義朝が、常澄に頼まれて
相馬郡の支配権獲得に乗り出したか
↓
千葉常胤、「義朝が常澄に乗せられて、常重から圧状の文を責め取った」と訴え出る
この年、藤原基実(もとざね)、生まれる(母は権中納言・源国信(くにのぶ)女)
→忠通に、養子・頼長への関白譲渡を躊躇する気持ちが芽生えることに
1144
9月 源義朝、三浦義継(よしつぐ)・義明父子らを率いて、鵠沼郷から
相模国大庭御厨(おおばのみくりや・神奈川県藤沢市大庭)に侵入し、田畑の大豆や小豆を刈り取って運び出す
→義朝、大庭御厨を鎌倉郡の内と主張して乱暴に及ぶ
※三浦義継:三浦庄司吉次(継)と呼ばれる。三浦半島中央部に所領を有し、中央権門か大寺社に
荘園として寄進して三浦庄を拓き、自ら荘司となる
※三浦義明:三浦大介(おおすけ・国司の次官)を名乗り、相模国衙の有力在庁官人となる。
衣笠城(横須賀市)を本拠とする。義明の兄弟らが三浦半島から相模中央部・安房にかけて
勢力を伸ばし、三浦党と呼ばれる一大勢力に成長する
※この事件の頃、源義朝は鎌倉に居住している
1145
1月 藤原頼長、童殿上を認められた子・兼長(かねなが)に、「忠経(ただつね)」の名を与える
→忠実、頼長を批判するとともに、兄・忠通を「風月に長」じていると評す(『台記』)
3月 源義朝、改めて相馬郡を神宮に寄進する(大半が千葉常重の寄進地と重複)
→義朝が子孫に留保した下司職と、常胤の下司職が競合し、常胤の権限回復が困難となる
↓
常胤、国司対策として未進物納入、義朝対策として御厨再寄進を行う
12月 藤原忠実、頼長に対して鳥羽批判を述べる(『台記』)
→鳥羽の美福門院系院近臣の重視に対する不満か
(院近臣勢力の台頭によって、藤原忠実と院との協調に陰りが生じる)
1146
2月 平清盛、安芸守に任じられる
→平氏と安芸国の関係が深まる
1147
4月 千葉常胤、官物納入により相馬郡司に任じられる
→先に国司・親通に責め取られた譲状、なお返却されず
6月 延暦寺強訴発生
→播磨守・平忠盛・清盛父子の配流を要求
※この時、顕頼(あきより・「夜の関白」顕隆子)が、散位にもかかわらず院御所議定に参入し、
議定終了後に唯1人参内して院と密談している
→摂関家をさしおいた近臣による政務決済
8月 千葉常胤、改めて寄進状を作成し、伊勢神宮に提出する(寄進地、南方に拡大)
→その後、義朝と平和共存の道が模索されたものと思われる
(義朝、源氏嫡流の立場から、常胤・常澄の抗争を調停したか)
この年、平家盛(忠盛弟)、常陸介となる
→これ以降、常陸は平氏勢力が強くなる
1148
1/5 藤原顕頼、死去
4月 藤原兼長(忠通猶子)、藤原忠通の近衛邸で元服する
10月 藤原兼長、五位中将となる
→頼長系の摂関継承が既定路線であるかのような観あり(元木)
11月 藤原兼長の少将昇進の遅延をめぐり、忠実と忠通が対立する
※以後、両者の関係は険悪化に進む
12/14 源師子、死去
→藤原忠実と忠通の調停者が失われたことに
この年、藤原頼長と藤原基衡の間で、高鞍荘(宮城県栗原郡)・本吉(もとよし・本吉郡)・
大曽禰(そね)荘(山形県東村山郡)・遊佐荘(山形県庄内)・屋代(やしろ)荘(山形県東置賜(おきたま)郡)の
取り分について争いが生じる
1149
7月 源義清死去
※この頃までには、清光は北巨摩郡に進出していたと思われる
→逸見郷を本拠としていたため、「逸見冠者(かじゃ)」と称する
※清光居館:現・清光寺(せいこうじ・北杜市長坂町大八田)
この年、平頼盛、常陸介となる
※頼盛、八条院庁の院司となって志田庄・村田庄・下妻庄・田中庄等を八条院領とし、
常陸大じょう家の直幹・広幹らが現地の下司(げす)となる
※大じょう広幹の弟・五郎忠幹は志田郡東条を領し東条氏、
六郎長幹(たけもと)は真壁郡を領し真壁氏となる
1150
1/10 藤原頼長、多子を入内させる
※多子の入内工作により、忠通の態度硬化
(頼長が外戚化に成功すれば、忠通系に摂関が戻る可能性はほとんどない)
→忠通、忠実の妥協案(一旦、摂関を頼長に譲渡した後、忠通の子孫にこれを戻すというもの)を
拒否するとともに、頼長と鋭く対立していた美福門院と提携し、呈子(妻・宗子の姪で、一時
美福門院の養女となっている)を自らの養女として入内を画策することとなる
→忠実・頼長と忠通の対立をさらに激化させることに
2月上 藤原忠通、呈子の入内工作を開始する
→摂関以外の者の娘は立后できないと鳥羽院に奏上して頼長方の立后の動きを妨害する
2/12 藤原忠実、入京し、鳥羽院に書を送り、非執政者の娘が立后した例を示すとともに、
頼長に対し、美福門院への立后工作の依頼を命じる
3/14 多子、立后
4月 呈子、入内
6月 呈子、中宮となる
→立后・入内合戦により、忠実・頼長と忠通の関係が修復不可能となる
9/26 藤原忠実、長男・忠通を義絶し、朱器台盤を取り上げて頼長に与える
→これを境に、藤原氏の指導者は忠通から頼長に移る
※この時、源為義らが忠実の東三条邸を警固している
この年、藤原基成、陸奥守に再任される(~53年)
この年、源義国、勅勘を蒙り、下野国足利の別業(べつぎょう)に籠居(ろうきょ)する
※義国子・義康、足利庄を本拠として足利氏祖となることに
1151
1/10 藤原忠実の奏請により、頼長が内覧を宣下される
→再び政界に関白と内覧が並立することに
7月 藤原頼長、源為義の摂津旅亭を源頼憲(よりのり)に焼却させて非難を浴びる
この年、藤原頼長、ささいな紛争から院近臣・藤原家成(いえなり)の邸宅を破壊し、
鳥羽院の信任を失う
→頼長、政治的立場を著しく悪化させることとなる
1152
7月 源行国、藤原頼長の命を受け、
興福寺で殺人を犯した僧道継(どうけい)を多田荘で匿う
この年、藤原基衡の最愛の妻(安倍宗任(むねとう)女)、死去
→基衡、亡き妻のために毛越寺(岩手県平泉町)を建立する
1153
2月上 藤原頼長、男色相手の寵臣・秦公春(はたのきみはる)の死去により、
2月上旬まで公事を放棄する(『愚管抄』)
9月 藤原頼長、藤原基衡に対し、特産品の年貢を一挙に5倍要求する
→基衡、粘り強く交渉して、半分ほどに値切ることに
この年、源義朝、下野守に任じられる
→鳥羽上皇への接近の成果か
※藤原忠実・頼長に接近していた為義・義賢(よしかた)・頼賢(よりかた)と対立し始める
この年、平忠盛死去
1154
1155
7/23 近衛、皇子ないまま崩御
鳥羽殿において、王者議定(皇位継承者を定める議定)が行われる
→藤原頼長、6月に死去した幸子の服喪中であることを理由に王者議定から疎外される
(9月に正室・宗子を失った忠通は宗子が出家していたことを理由に服喪を免除されており、
頼長・忠実を体よく排除したということか(元木))
↓
皇位継承の第一候補と目されていた重仁(しげひと)親王(崇徳皇子)が除外され、
守仁(もりひと)親王(美福門院養子・二条)の即位の前提として、その父・雅仁(まさひと・崇徳同母弟)親王が擁立
され、守仁が立太子されるという予想外の結論に
→かつて院政の可能性を奪われ、今度は皇子の即位を阻まれることで
再び院政を阻まれた崇徳が大いに怒る
・鳥羽院:実子でないとされる崇徳系を皇統から排除しようとしたか
・美福門院
・信西:妻・朝子が雅仁の乳母
・忠通:皇位継承を機に頼長排斥か
※雅仁即位後も、藤原頼長に対する内覧宣下は行われず
→これまで政治的に優位に立っていた忠実・頼長が、一転して失脚することに
8月 源義平(よしひら・義朝長男・母は三浦義明女)、源義賢(義仲父)を殺害する
※源義仲、父・義賢の死去により、乳母の夫・中原兼遠(かねとお)を頼って木曽谷(木曽郡木曽福島町)に逃れる
9月 源頼賢(義賢養子)、兄の仇討ちのために信濃に下向し、院領荘園を侵す
→義朝に頼賢追討の院宣が下る
12/16 高陽院、死去
→藤原忠実・頼長、鳥羽院との関係が好転しかけていた矢先に、仲介役を失い孤立することに
1156
4月頃 鳥羽、発病
6月上 鳥羽、危篤
7/2 鳥羽、崩御(『愚管抄』)
※鳥羽、死の前から源義朝らに禁中を警固させ、崩御後の情勢変化に備えさせている
※この時の義朝の従者:鎌田政清(まさきよ)・藤四郎・同五郎・大庭景義・同三郎・
波多野義通(よしみち)上総介広常・千葉常胤ら
7/10 崇徳、反鳥羽方の武士を集める(『兵範(ひょうはん)記』)
7/10夜 源義朝・平清盛、朝がれい(あさがれい・天皇が朝食をとる場)に召され、
公卿とともに作戦について協議する
7/11 明け方、源義朝らに出陣命令が下る
→義朝、官軍として戦える喜びを吐露したとされる(『愚管抄』)
義朝勢(200騎)・清盛勢(300騎)、二手に分かれ、崇徳方の白河殿に攻め寄せる
→保元の乱
後白河 VS 崇徳
・平清盛 ・平忠正(ただまさ)
・源義朝 ・源為義
・上総広常 ・源頼憲(よりのり)
・千葉常胤 ・興福寺悪僧(参戦間に合わず)
・検非違使 ・摂関家領荘園の武士
・地方武士動員
国家権力による動員 VS 藤原忠実が政界に復帰して以降培ってきた摂関家の私的武力
※源為義:義朝との対立を避けて参入を躊躇うも、崇徳の説得により、
子・頼賢(よりかた)・為朝(ためとも)以下を率いて参戦
※信実(しんじつ)以下の興福寺悪僧と、これに随伴する大和源氏以下の武士団は
7月10日の合戦には間に合わず
→忠実・頼長の準備の遅れを物語る(元木)
寺院の既得権益擁護のためにのみ蜂起してきた悪僧が、初めて世俗の抗争に参戦しようとした
という意味で、平氏との抗争の先駆けという側面もある(元木)
※保元の乱は、鳥羽・後白河が不満分子を抑えるためにいち早く武力を動員した合戦で、防御ではなく、
挑発により謀叛に追い込んで政治的に葬り去るのが真の狙いであった(元木)
※波多野義通、合戦後に敵方に与した義朝の幼い弟を舟岡山で涙ながらに斬首したとされる
※義朝と波多野義通妹との婚姻が、波多野氏の義朝への服属の契機とされる
(『吾妻鏡』1180年10/17条)
※保元の乱により、武士の世の幕明け(『愚管抄』(慈円))
午前8時頃 白河殿に火がかけられる
→後白河方の一方的勝利に終わる
7/11 藤原頼長、首に流れ矢を受け重傷を負う
7/11 平清盛:播磨守
源義朝:下野守に加え、右馬権頭(うまのごんのかみ)を兼任することに
※平氏に厚く、源氏に薄い恩賞だったとされる
7/12 藤原頼長、西山(にしやま)付近に逃れる
7/13 仁和寺に逃れていた崇徳、投降する
7/13 藤原頼長、大井川(桂川)から乗船して、最期の対面のため忠実のいる奈良に向かう
※忠実、頼長との対面を拒否する(『保元物語』)
→死に見舞われる者は春日大明神に見捨てられた者として忌避するという考え方とともに、
忠通を通じて朝廷から自己の中立の認定と摂関家領の保証を得るのが真の狙いか(元木)
7/16 源為義・藤原教長(のりなが)・成隆(なりたか)が投降する
7/17付 後白河綸旨
→忠実が不穏な動きをしたことを理由に、
頼長領とともに忠実の荘園を没官せよと命じる(『兵範記』)
→摂関家の財産関係に朝廷が介入することに
→忠実と忠通、長年の確執を超えて摂関家領の保全に努めることとなる
忠実、その荘園を忠通に献上する
7/19 藤原忠通、氏長者就任を受諾する(『兵範記』)
→従来、摂関家内部で決定していた氏長者の人事をも朝廷に左右されるに至った
↓
財産・人事両面で介入を受け、摂関家の自律性が著しく損なわれることに
※忠通は保元の乱に勝利するも、摂関家は政治的に無力化し、美福門院と信西が実を得た格好に
7/21 藤原頼長の死が判明する
7/27 保元の乱に関する罪名が宣下される
・国家を危ぶめた:崇徳・藤原頼長(忠実は除外されている)
頼長の子息の兼長(かねなが)・師長(もろなが)・隆長(たかなが)は配流
※頼長子息に子孫なく、頼長流は政界から消滅することに
・藤原忠実:洛北の知足院(ちそくいん・現大徳寺付近)に幽閉されることに(『保元物語』)
・源為義、平忠貞ら:死罪
→薬子の変後、執行されていなかった死罪を復活させた
※「摂関家の武装解除」という目的の下、
崇徳側の降伏者も後白河側の一族により処刑されるという異例の事態に
8/3 藤原頼長の子と、崇徳方の公家の流罪が決定される
8/23 崇徳、讃岐配流
8/26 源為朝、近江坂田付近で捕えられる
→伊豆大島に配流
この年、堀河の子・最雲法親王、比叡山天台座主となる
この頃、平清盛、厳島信仰を持ち始める
1157
3/19 藤原基衡、死去
→3代目:秀衡
※藤原秀衡邸跡:加羅(から)御所跡(岩手県平泉町)
この年、北条政子誕生
1158
春 波多野義通、源義朝と不和となり、京を離れて波多野庄に居する(『吾妻鏡』)
8月 後白河、守仁親王に譲位する(後白河院政)
→二条即位
※後白河が親政ではなく譲位したことで、再び天皇家二分の兆し
→権勢欲旺盛な近臣達が接近してくることに
※藤原忠通、長男・基実に関白を譲っている
→念願の実子への関白継承
16歳の史上最年少関白の誕生であるとともに、少年でもこなせる関白の形骸化の現れとも
この年、平清盛、太宰大弐に任じられる
→清盛は京にとどまったまま、日宋貿易の利益を得る
1159
2/19 平清盛、上西院(じょうさいいん)の院庁始めの日、式後の宴で、
蔵人の源頼朝から酒盃を受ける(『山木へんに鬼記』)
→清盛と頼朝の、生涯唯一度の顔合わせ
12/4 平清盛一家、紀州に熊野詣に赴く
12/9 藤原信頼・源義朝の軍勢、清盛不在の間に藤原信西屋敷(三条殿(上京区三条殿通町))・
姉小路西洞院(にしのとういん・上京区西洞院通)を襲撃する
→平治の乱
後白河
↑ 近衛大将(このえのたいしょう)を望む
↑
藤原信西(しんぜい) ←←←←←←←←←←藤原信頼(のぶより)
後白河乳母(めのと)・紀伊局(きいのつぼね)の夫で、清盛と姻戚関係あり 関白・藤原基実(もとざね・忠通子)の義兄
信西拒否 信頼、信西を恨み、保元の乱後の恩賞・処罰に不満を抱いていた
源義朝に接近して信西討伐の機会を窺うことに
平清盛 源義朝
源頼朝
佐々木秀義
→信西、屋敷を逃れ、綴喜(つづき)郡田原(京都府綴喜郡宇治田原町)の山奥で、
地面に穴を掘って身を潜める
12/13 源光保(みつやす)、穴に隠れていた信西を発見して討ち取る
12/14 藤原信頼:待望の近衛大将に任官
源義朝:従四位下播磨守
源頼朝:右兵衛佐(うひょうえのすけ)
平清盛、二川(ふたがわ)の宿(和歌山県田辺市西北)で事件を知り、帰京する
↓
12/17 平清盛、帰京
→名簿(みょうぶ)を提出して信頼を安心させる
12/25 夜、二条天皇を女装させ、清盛の六波羅邸(京都市東山区松原町)に脱出させる
→清盛、官軍の立場を確保し、全公卿を六波羅邸に集める
※この頃、後白河も仁和寺(京都市右京区御室(おむろ))に逃れている
12/26 早朝、平清盛、藤原信頼・源義朝追討の宣旨によって六条河原に出陣する
→嫡男・重盛(しげもり)を大将として、
大内裏大庭(だいだいりおおにわ)に陣取る信頼・義朝を攻めさせる
↓
重盛、待賢門で悪源太・義平の迎撃を受ける
※義平、わずか17騎で重盛勢500に突入し、左近の桜・右近の橘の辺りで重盛を追い回したとされる
義朝勢、平氏勢を追って六条河原に攻め込む(清盛の術中に)
12/27
辰の刻 六条河原で両軍の戦闘が始まる
午前10時頃
酉の刻 平氏の勝利に終わる
午後6時頃 →義朝、六条河原から加茂川をさかのぼり、
八瀬(やせ)~大原~近江~東国へと落ちのびる
→途中、長田忠致(おさだただむね・尾張知多半島の内海(うつみ)庄司)を頼るも裏切られ、斬殺される
※平治の乱直後、平清盛、正三位に叙せられる
・重盛:伊予守
・頼盛:尾張守
・教盛:伊勢守
※源義平、父の仇を討とうと逢坂の関あたりに潜んでいたが、捕えられ斬殺された
※源頼朝、東国に逃れる途中、雪の山中で父とはぐれ、関ヶ原を彷徨っているところを捕えられる
→池禅尼(いけのぜんに・清盛継母)の哀願で助命される
※佐々木秀義、本領・近江佐々木庄を失い流浪する
※毛利冠者(かじゃ)・陸奥六郎義隆(源義家末子)、義朝に与して敗れ、義朝に従って東国に逃れる途中、
竜華越(りゅうげごえ 比叡山北・比良山南)で討死している
→毛利冠者・頼隆(義隆子)、下総に配流され、千葉常胤に預けられる
この系統の毛利氏は、平治の乱以降は毛利荘と関係をもっていない(河合)
※上総広常は参戦記録あるも、千葉常胤は不参加か
※源義経、鞍馬寺に送られる
※藤原基成(信頼兄)、陸奥国配流となり、藤原秀衡館に逃げ込む
→秀衡、基成の娘を娶り、基成に衣川館を与える。以後、基成は秀衡の参謀的役割を担うことに
この年、相馬御厨が、謀叛人・義朝の所領として国衙に収公される
→千葉常胤、「義朝の所領ではない」と訴え出る
↓
在庁官人の現地調査が行われる
↓
裁定前に、源義宗(佐竹昌義の子)が御厨の現地支配権を主張する
(国守・親通が次男・親盛に譲り、親盛が義宗に譲った」と主張するとともに、
「謀叛人の郎従」の悪性を主張)
→平治の乱で義朝が敗死したのを、下総進出の好機と捉えたか
※常重の譲状は常胤の官物納入によって破棄されたはずであり、平氏を後ろ盾にして
義朝敗死に乗じて無効文書を持ち出したという色彩が強いか
※佐竹氏:源義光の末裔を称する。義光が常陸介在任中に立てた別業(べつごう)・佐竹郷を本拠に
勢力伸張する。昌義は義光の孫で、常陸にあって中央の平氏と結び、威勢を誇る
1160
3月 源頼朝、伊豆・蛭ヶ島(ひるがしま)に流されてくる(14歳)
※配流地での頼朝
・一門の菩提を弔うため読経に努める
・伊豆・相模の土豪を率いて狩を楽しむ
ex:工藤茂光(しげみつ)・土肥実平(どいさねひら)・岡崎義実(おかざきよしざね)・天野遠景(とおかげ)・
宇佐美助茂(すけしげ)・加藤次景廉(かとうじかげかど)・小中太光家(こちゅうたみついえ)ら
・生活の糧は、比企尼(頼朝乳母)の武蔵国比企郡から送られてくる
(比企尼、頼朝配流により、夫・掃部允(かもんのじょう)とともに比企郡に移り住む)
・身の周りの世話は、比企尼の3人の婿が行う
→安達盛長(もりなが)・河越重頼(しげより)・伊東祐清(すけきよ)
・頼朝、伊東祐親(すけちか)の娘との間に一子・千鶴(せんつる)をもうけ、京都大番役(おおばんやく)を終えて
帰国した祐親の怒りを買い、命からがら走湯山(そうとうざん)に逃れる(『源平盛衰記』)
・その後、北条時政(保元・平治ともに源氏に加わっていない。平氏を称するも平氏一門ではない)を頼るも、
再び時政の女・政子と結ばれる
→北条時政、世間を憚るも、頼朝の「心の勢」(『源平盛衰記』)を見抜いて、
深く期するところがあったとされる
(平氏の弱体化を見通し、源氏嫡流・頼朝を担いで、あわよくば勢力を伊豆一円に拡げるの意か)
※北条氏:田方(たがた)郡韮山町寺家(じけ)字北条付近
・頼朝、亀の前(良橋(よしはし)太郎入道女)と何らかの接触あり
→後に鎌倉に呼び寄せる
6月 平清盛、正三位参議に叙任される
→武士として初めて公卿に列せられる
8月 平清盛、初めて厳島神社に参詣する
9月 平清盛、右衛門督(うえもんのかみ)となる
この年、後白河、新熊野社を勧請創建する
※この時、東山観音寺、「今熊野観音寺」に改称する
この年、平知盛(とももり)、武蔵守に任じられる
この年、徳尼、夫の菩提を弔うため、白水阿弥陀堂(福島県いわき市白水)を創建する
この年、肥前で日向通良の乱が勃発
→対宋密貿易に従事していた九州豪族が、
清盛の大宰府経営に不安を感じて起こしたとされる
1161
1月 源義宗、相馬御厨の現地支配権を主張し、
御厨を伊勢神宮に寄進する
1月 平清盛、検非違使別当(べっとう・長官)となる
2月 千葉常胤、源義宗に対抗し、再び寄進状を作成提出する
→御厨の現地支配権をめぐり、常胤・義宗が争うことに
9月 平清盛、権中納言(ごんのちゅうなごん)となる
この年、憲仁、生まれる
→誕生から即位(高倉)までの間に、清盛の異常な出世が実現することに
1162
3/5 武田(石和)信光、石和(山梨県笛吹市)で生まれる(『甲斐信濃源氏綱要』)
6/18 藤原忠実、京の知足院(ちそくいん)で死去
この年、平清盛、従二位に叙せられる
この年、藤原定家(ていか)、俊成の五条第(五条京極か)で生まれる
※藤原定家の功績
・歌道の発展
・小倉百人一首
・多数の古典を校訂して後世に伝える
※藤原俊成、最晩年に式子(のりこ)内親王(以仁王姉)のために『古来風体抄(こらいふうていしょう)』を著す
→日本の歌道を三時代に区分している
① 『万葉集』を中心とする時代
② 『古今集』を中心とする時代
③ 『千載集』から『新古今集』に至る時代
※俊成、法性寺裏に葬られ、墓は現・東福寺境内に移される
1163
この年、相馬御厨の件につき、源義宗の訴えが認められる
→千葉常胤、採り得る策は尽くしたが、政治に敗れた
※後に、頼朝挙兵→佐竹討伐を経て、ようやく千葉氏のもとに戻ってくる
→次男・師常が「相馬小次郎」と称して相馬氏祖となる
1164
8月 崇徳、死去
この年、平清盛、蓮華王院(れんげおういん・三十三間堂(さんじゅうさんげんどう))の造営を担当する
※約80年後に焼失する
※正面の柱間が33あることから、「三十三間堂」と呼ばれる。
日本唯一の千体観音堂で、堂内には1001体の観音像がまつられている
太閤塀(たいこうべい)と南大門も秀吉ゆかりの桃山期建造物
この年、厳島の「平家納○」が完成する
この年、平清盛女・盛子、関白・基実夫人となる
この年、畠山重忠、埼玉県大里郡川本町大字畠山付近の畠山館で誕生したか
→幼少期を父とともに京で過ごしたか
(『吾妻鏡』1184年6/1 「是皆京都に馴るるの輩なり」)
この年、藤原師長(頼長子)、土佐から帰京する
→後白河の側近となる
1165
この年、平清盛、権大納言・兵部卿(ひょうぶのかみ・軍事長官)となる
この年、二条、崩御
1166
この年、平清盛、正二位・内大臣となる
この年、憲仁親王、皇太子に立てられる
平頼盛(清盛の弟)、兄の後任として太宰大弐となり、修理大夫と兼任でありながら
前例を破って大宰府に赴任
この年、俊○律師、肥後国飽田郡味木荘に生まれる
1167
2月 平清盛、左右大臣を経ずに従一位・太政大臣になる
→3ヶ月で辞任する
※平治の乱から8年で、平氏棟梁から王朝貴族の頂点に昇ることに
――――――――――――――――――――――――――
↓ ↓ ↓
平清盛―――――時子(ときこ) 後白河―――――滋子(しげこ・時子妹) 大納言・時忠(兄)
↓ ↓ 建春門院(けんしゅんもんいん)
↓ ↓
―――――――――――――――――――― ↓
↓ ↓ ↓ ↓
女(盛子妹) 関白・基実―――盛子(せいし・徳子妹) 徳子――憲仁(のりひと・高倉)
↓ ↓
↓ ↓
基通(もとみち) 言仁(ときひと・安徳)
※清盛、天皇家・摂関家と強固に結びつく
※大納言・時忠、「此の一門にあらざらむ人は皆人にあらず」
8月 平清盛、肥前・播磨・肥後に大功田を与えられる
この年、結城朝光、生まれる(『結城家之記』)
※結城家には、頼朝の2歳上の寒河局が頼朝の乳母の頃に頼朝の子を身籠り、それが朝光であるとの伝承あり
1168
平清盛、重病を患って出家する
※「入道相国」は出家した太政大臣の意
3月 平清盛、後白河と相談の上、憲仁親王を即位させる
→高倉
※平氏が天皇の外戚の地位を得る
※清盛と後白河の協力関係の最後となる
この年、重病を患った厳島神社の神主・佐伯景弘、
平清盛の援助を得て社殿を大改築する
※平氏にとって、氏神作りであり、また、単なる院の傭兵から有力貴族化への脱却の足掛かり
1169
この年、延暦寺衆徒、天台座主・明雲らを伴い、守護神である日吉神社(大津)の
神輿を奉じて内裏に乱入する
※まだ表面化していないが、清盛・延暦寺・時忠VS後白河・後白河近臣という構図
→後の反平氏政策の伏線に
1170
この年、藤原秀衡、鎮守府将軍に任じられる
※「蝦夷」と蔑んでいた奥州原住民を抑えるための職に、抑えられるはずの奥州人が任命されたことで、
京の公家が驚く
鎮守府将軍
兼光―――
↓
↓
正頼(まさより)―――
↓
↓
経清(つねきよ)―――
↓
↓
・・・―――
↓
↓
藤原秀衡
この年、摂政・藤原基房の従者、平資盛(すけもり)の牛車を壊す
※重盛、参内途中の摂政・基房を襲わせ、基房の参内を阻止して朝議(ちょうぎ・朝廷の儀式)を停滞させる
→公卿の間に平氏に対する反感が募っていく
1171
平清盛の娘・徳子、後白河法皇の養女の立場で入内し、女御となる
1172
徳子、中宮となる
→藤原流(娘を天皇の后とし、その間に生まれた皇子の即位を待って天皇の外祖父となる手法)を踏襲
1173
春 親鸞、日野で生まれる
※親鸞:浄土真宗
日野有範(ありのり)――――――吉光女
↓
↓
親鸞
1174
1175
この年、法然、浄土宗を開く
1176
1177
6月 鹿ケ谷(ししがたに・京都市左京区鹿ケ谷)の変
→西光(さいこう・藤原師光)は処刑、藤原成親は配流地の備前で殺害される
俊寛(しゅんかん)も首謀者の1人として、成親の子・成経、平判官・康頼とともに、
鬼界が島(硫黄島)に流される
※多田行綱(ゆきつな・多田源氏)の密告で平氏打倒の陰謀が露見した
※陰謀の中心に後白河がいた
→清盛との関係がさらに悪化することに
※中原基兼、藤原秀衡のもとに逃れ、秀衡はこれを受け入れる
→京とは別個の平泉の論理か
※この時、多々良盛房が常陸国に、多々良弘盛が下野国に、多々良盛保が伊豆国に、
多々良忠遠が安房国に流されている
→多々良弘盛の頃から「大内介」という表現が用いられ始める
(島津家の伝承)
丹後局、北条政子を恐れて摂津国住吉に逃れる
住吉大社で雨宿りしながら安産祈願しているうちに社内で男子を出産
数匹の白狐が現れて乳母に姿を変えて赤子に乳を飲ませ、他の狐も局の世話をする
「この女人は我が一族の化身、故に救ってとらせるぞ」とのお告げが聞こえる
幕臣・畠山重忠が出生を聞いて厚くこれを保護する
後に重忠が烏帽子親となって元服させ、「忠」の一字を与えて「忠久」とする(薩摩島津家初代・忠久)
忠久、幕府から薩摩守護職に任じられ、母・丹後局とともに薩摩に赴く
この年、頼朝と北条政子、結婚したか(『大日本史』)
→北条の主筋・山木兼隆を振っての逃避行
※「夢買い」のエピソード(『曾我物語』)
この年、藤原師長、太政大臣となる
1178
10/5 多々良氏の流罪が免ぜられる
11月 言仁(ときひと)、誕生
この年か、翌79年、頼朝長女・大姫誕生
1179
6月 平盛子(せいし・清盛女・近衛基実未亡人)、死去
→清盛と後白河の政戦が激化することに
※後白河、摂関家の氏の長者領の全てを奪い、院領とする
8月 平重盛(清盛長男)、死去
※後白河、直ちに重盛の知行国である越前国を没収する
11月 平清盛、福原(神戸市兵庫区)から数千の兵を率いて上洛しクーデターを敢行する
→後白河法皇を鳥羽殿に幽閉し、院政をやめさせる
※関白・基房(もとふさ)ら反平氏の公卿約40人を解職し、親平氏の藤原基通(もとみち)を関白に据える
→清盛独裁体制へ
※強引なクーデターが平氏滅亡のきっかけとなった(七宮)
※藤原師長、クーデターにより再び配流となり、出家する
1180
2月 高倉、言仁親王に譲位し(安徳)、院政敷く
→清盛が天皇の外祖父となったことに
※実権は平清盛に移っていた
3月中 京に三寺蜂起の噂が流れる
※「園城寺・延暦寺・興福寺が相語らって、後白河と高倉を救出しようとしている」
3/19 平清盛、高倉を奉じて厳島神社に向かう
以仁王の平氏追討の令旨だされる
→王を天武・聖徳太子になぞらえて挙兵を呼びかけるもので、
即位後の恩賞まで約束している
↓
源行家、以仁王の令旨を持参して武田信義に挙兵を促す
→信義、これに応じて信濃に出兵する
※その後、信義、駿河黄瀬(きせ)川宿で頼朝に面会し、範頼に従い軍功あげる。
後に子・忠頼が頼朝の怒りを買い殺害されたことで信義も遠ざけられる。
甲斐武田の嫡流は忠頼の弟・信光に引き継がれる
4/27 新宮行家(しんぐうゆきいえ・頼朝叔父・義朝末弟)、早朝に以仁王の令旨を
伊豆(北条時政邸)の頼朝のもとに届ける
※頼朝に限らず、諸国の源氏のもとに届けている
※頼朝、水干(すいかん)で装束(しょうぞく)した後に令旨を開いて読み、北条時政に相談する
5月 源頼政、以仁王を擁して平氏追討のため挙兵
※この時、園城寺(三井寺・滋賀県大津市)も以仁王を支援している
5/10 頼朝のもとに、頼政挙兵の報が届く
5月頃 源義仲、行家から以仁王の令旨を受ける
5月 宇治川の合戦
※足利忠綱(ただつな)が先陣の功をあげる
→秀郷流足利氏が武芸に秀でていたことを示すか
5/26 以仁王・源頼政、宇治で討死
6/19 頼朝に重大事項を伝えるために仮病を使って仕事を休んで東下した三善康信の弟・康清、
北条に到着する
→「令旨を受けた源氏は全て討伐されると決まった。頼朝は特に危ないから、
至急、奥州へ逃れたほうがいい」
→藤原秀衡の食客として一生を終えるか、挙兵するか、二者択一を迫られることに
※北条時政:「上総介広常・千葉常胤・三浦義明の3人を味方につければ、他の土肥・岡崎・懐嶋(ふところじま)らも
参陣するでしょう。畠山重忠・稲毛重成は、父が平氏に仕えており、最も手強い敵となるでしょう」(『延慶本平家物語』)
頼朝、意を決し、安達盛長を派遣して東国の御家人を招集する
6/27 千葉胤頼(常胤六男)、三浦義澄とともに頼朝を訪ねる
※京の情勢を細かく報告し、決起を促している
6月 平氏、福原に遷都する
※平氏に同調せずに京に残る人々も多かった
→藤原定家もその1人
7月 畠山重能と弟・小山田有能、大番(おおばん)のため京に上る(『平家物語』)
8/2 大庭景親(平氏方先陣)、東国鎮撫のため京から下向する
8/17 源頼朝、後白河法皇の院宣を「受けて」伊豆で挙兵し、夜12時頃、
伊豆国府庁目代・山木兼隆館を襲撃する(この日は三島神社祭礼の日)
→佐々木盛綱が山木兼隆の首を取る
※いわゆる「源平合戦」の幕明け
※山木攻めの時点で馳せ参じた面々
→北条時政・工藤茂光・土肥実平・岡崎義実・宇佐美助茂・天野遠景・
佐々木定綱・経高・盛綱・高綱・義清・加藤景廉ら
※佐々木兄弟、以後、平氏滅亡まで第一線で軍功をあげる
※佐々木定綱:相模国渋谷庄(神奈川県綾瀬市付近)
※佐々木高綱:宇治川での先陣が有名
※この頃、政子、伊豆山に隠れて心配していたという
※この後、安達盛長を使者として、各地の武士に決起を求めている
※常陸平氏は、頼朝挙兵以来、冷淡な態度をとり続ける
※新田義重、内乱開始を受けすぐに上野に下向し、寺尾城で「自立の志」を示す
8/18 頼朝・政子、山木兼隆の死を祝い合う(~19日)
8/20 頼朝、相模国土肥(現・早川付近)に向け出陣する
※三浦勢の来援を待つも、暴風雨で酒匂(さかわ)川が洪水し、三浦勢は川を渡れずに兵を返していた
8/22 三浦一族、三浦を出陣し、頼朝救援に向かう
8/23 夜、畠山重忠、金江河(花水川・平塚市)に張陣する(『源平盛衰記』)
8/24 石橋山(小田原市石橋)の戦い
頼朝方約300騎、石橋山に張陣する(和田・三浦はまだ到着せず)
→大庭・俣野(またの)・河村・渋谷・長尾・熊谷ら平氏方3千が迎え討つ
→逃走の際、梶原景時が大木の後ろに隠れていた頼朝主従を見逃す
※畠山重忠、動員令を受けるも、石橋山の合戦には間に合わず
※石橋山の戦いで、令旨を源氏の白旗の上に結いつけたと伝わる
頼朝、令旨により自分に東国の沙汰権(支配権)が与えられたと称して種々の命令を発し、
また、以仁王が東国に下って自己の陣営にあるかのような偽装までしたともされる)
→流人の挙兵の大義名分として非常に重要な意味をもったとされる
↓
頼朝、箱根山に隠れる
↓
頼朝、さらに土肥に逃れる
石橋山に間に合わなかった三浦軍、丸子(まりこ)川付近で頼朝方の敗北を知り、
引き返す途中、由比ガ浜で畠山重忠軍と戦う
三浦方:300 VS 畠山方:500
(小坪峠) (稲瀬川)
→重忠、小坪~逗子~あぶ摺~葉山~木古庭(きこば)と三浦を追跡する
※木古庭の先に、この時重忠が張陣したと伝わる山がある
※毛利太郎景行・大庭景親・渋谷重国・海老名季貞・曽我祐信・熊谷直実ら、
平氏方として参戦している
→渋谷・海老名・曽我らがこの後頼朝に帰参しているのが確認される(河合)
※毛利景行の動向は、33年後、和田義盛の反乱に与して滅亡するまで窺えず
→毛利景行、幕府から許され、所領のうち根本の屋敷地や一部の名田の所有は認められたが、
毛利荘全域を管理する地頭職は取り上げられたということか
→毛利荘地頭職、大江広元に与えられることに(河合)
※毛利氏:平氏全盛期には平氏被官で、景行の系統が毛利荘の開拓を進めた
開発領主の子孫・生え抜きか
源義家末子・義隆を迎えたのも、景行の先代が、武家棟梁として名声を高めていた
義家の権勢を借りるためだったか
8/25 三浦勢、三浦に戻る
8/26 午前8時頃、衣笠城で戦闘となる
→畠山重忠、河越重頼・江戸重長(しげなが)らに加勢を要請する
→武蔵七党の3千騎が衣笠城を襲う
※加勢がすぐに着いたのは、大庭の動員に応じて既に相模まで進んでいたからか
※畠山重忠は平氏全盛期に物心がつき、
源氏に対して特別な感情は有していなかったのではないか(貫達人氏)
8/27 衣笠城、落城
→三浦義澄・和田義盛以下、夜に栗浜(横須賀市久里浜)から安房に向け船出する
※この時、89歳の三浦義明、「源氏再興の時に居合わせた喜びに耐えない。余命いくばくもないから、
ここで命を投げ出して子孫の勲功を増そうと思う」として、1人城に残り討死する
※三浦義明、衣笠城あるいは清雲寺(横須賀市大矢部)付近で自害したとも伝わる
→清雲寺付近に「義明腹切の松」あり
※安房に逃れた三浦勢、途中で土肥岩浦から船出した北条時政と偶然海上で会う
8/28 頼朝一行、真鶴の岬(神奈川県足柄下郡真鶴町)から小船に乗って安房に逃れる
→乗船直前に、政子に使者を送る
※栗浜から安房に向かった三浦勢と偶然海上で会う
※和田義盛、頼朝に向かって激励するとともに、
平氏を滅ぼした暁には自分を侍別当にするよう要望する(『源平盛衰記』)
8/29 頼朝、安房国平北(へいほく)郡猟島(りょうしま・千葉県安房郡鋸南(きょなん)町竜島(りゅうじま))に上陸する
※直ちに安西景益(あんざいかげます・幼少期から頼朝と親しい)に書状を送り、参上を促す
※この頃の安房
・安西三郎景益:平(へい)郡
・丸(まる)五郎信俊:丸之郷
・神余氏:神余(かなまり)郷
・東条氏:長狭(ながさ)郡東条
9/2 伊豆山から秋戸(あきど)郷(熱海付近か)に移っていた政子のもとへ、
頼朝の使者・土肥遠平(とおひら)が到着する
→石橋山の敗戦の報で涙に暮れていた政子、
頼朝の無事を聞き一旦喜ぶも、その後を心配する
9/3 頼朝、上総介広常のもとに向かう途中、平氏方の
長狭(ながさ)六郎常伴(つねとも)の夜襲を受け、かろうじて撃退する
9/4 安西景益、一族とともに参上する
※景益、このまま上総に向かっては危険が大きいと進言し、景益館に入り広常と常胤に使者を送って
迎えに参上するよう要請することとなる
※和田義盛を上総介広常のもとへ、安達盛長を千葉常胤のもとへ派遣し、参上を促すことに
相模の三浦・和田と合流する
↓
9月上 安達盛長、千葉常胤を訪れ、参加を要請する(『吾妻鏡』)
→常胤感激(相馬御厨喪失の悔しさと、源義朝の勇姿を思い出したか)
↓
千葉常胤・上総広常(かずさひろつね)ら房総の豪族の大軍を得る
↓
武蔵の諸将が続続と馳せ参じる
この頃、北条時政も甲斐・信濃の諸将を説いてまわっている
※頼朝挙兵時点で確実に千葉氏の所領と確認できるのは、千葉庄くらいしかない
可能性あるものさえ、千葉庄に接した船橋御厨・萱田・吉橋・神保くらいしかない
9/9 千葉常胤、頼朝の居所を鎌倉に定めるよう勧める
※鎌倉:義朝の亀谷(かめがやつ)の居館(寿福寺)のあった源氏に深い関係のある地
※この後、政子のもとに、鎌倉で落ち合う旨伝える使者が向かったか
9/13 千葉常胤、下総の目代邸(千葉県市川市国府台か)を襲撃する
9/13 頼朝、安房を発ち、上総に向かう
※この時、300余騎
9/15 北条時政、以仁王の令旨の写しを甲斐源氏に届ける
9月中 北条政子、待ちきれなかったか、伊豆から稲瀬川(いなせがわ)付近の民家に移る
→「日が悪い」として、入倉は延ばす
9月 菊池隆直の乱
9/17 千葉常胤、下総国府で頼朝を迎える
→頼朝、「常胤をもって父となす」と述べる
※常胤、この時、平治の乱で義朝の身代わりとなって討死した源義隆(義家六男)の子・毛利頼隆
(生後50日で下総に流され、常胤に預けられていた)を頼朝に面会させる
→頼朝、大いに感激する
↓
頼朝、千葉常胤の建策に従い、川岸に白旗を立て並べる
→これを見た江戸・葛西の兵が続々と集結し、6~7千に膨れ上がる
9/19 上総広常、上総全域から集めた兵2万を率いて下総国府に参上する
→頼朝、大軍を見て喜ぶどころか、遅参を咎める
→場合によっては頼朝を討って平氏に献上しようと考えていた広常、
頼朝を人の上に立つ者と認め、心服する(『吾妻鏡』)
10/2 頼朝、安房~上総~下総を経て、2万7千の兵を率いて武蔵に入る
↓
豊島(としま)清元・葛西清重らが馳せ参じる
10/2 結城朝光(結城家祖)、母・寒河局(さむかわのつぼね・下野の八田宗綱(むねつな)女で小山政光妻)に伴われて
武蔵国隅田(東京都)で頼朝に拝謁する
※寒河局、かつて頼朝の乳母だった縁で、末子・朝光を伴って参向してきたとされる
※頼朝、自ら烏帽子親となり、一字与えて「小山七郎宗朝」と名乗らせ、
御家人として頼朝に奉公することとなる
→後に「朝光」と改める
※結城朝光:小山政光四男で、1180年の頼朝挙兵以来の部下
戦功により、下総国結城と陸奥白河を与えられ、小山姓から結城姓に改める
結城氏は南北朝期は尊氏方につくことに
10/4 長井の渡しで、畠山重忠・河越重頼(三浦攻めの主力)・江戸重長が頼朝に帰順する
→この3人は石橋山の時点で平家方であり、また、三浦義明の仇でもあるが、
平維盛が東進している状況下にあっては、敵にまわすべきではないと判断し、
三浦に我慢してもらって配下に加えた
※畠山重忠としても、父・重能ほどは平氏に恩がないし、「平氏は一旦の恩、源氏は重代の恩」とも言える。
また、南関東を席巻した「源氏再興の流れ」に敏感に反応したか
10/6 畠山重忠、3万近い大軍の先陣を任され、相模の国に入る
10/7 源頼朝、鎌倉に入り、政子を鎌倉に迎える
→東国に義家の頃の勢力を築き、鎌倉を本拠に武家政権樹立の道を歩み出す
cf.従来型:地方の騒乱を鎮圧し、都に上って官位を与えられ、その官位の威光で
地方武士を従えるというやり方
※「平氏が源氏を追討すると言うから対抗しただけであって、院には恭順しております」という
立ち位置で、「東国武士の棟梁」という地位以上に天下の覇者たらんといった野心は
この時点ではなかったか
※頼朝、この時、鶴岡八幡宮に参詣する
10/9 頼朝、大倉御所(鎌倉市西御門)を建て始める
10/9 木曽義仲(義賢(よしかた)子・頼朝従兄弟)、挙兵
※この頃、近江で山本義経・柏木義兼も挙兵している
10/11 頼朝、政子と仮新居(山内兼道(かねみち)邸)で同居開始
10/12 頼朝、鶴岡八幡宮を小林の北山に移し、源氏の氏寺として大倉御所西隣に勧請する
※鶴岡八幡宮を鎌倉の中心とする都市計画
10/13 武田信義・安田義忠・逸見光長ら甲斐源氏軍、
北条時政とともに駿河に向かい出陣する
10/15 新邸移築完成(大倉邸)
10/16 頼朝、平氏を迎え討つため鎌倉を発つ
10/17 甲斐源氏・武田信義、攻め寄せてきた駿河国目代の軍勢を全滅させる(『玉葉』)
→信義、平維盛の陣に使者を送る
→参謀・上総介忠清が書状を読んで怒り、使者の首をはねる
10/18 頼朝軍、足柄山を越え、夜に黄瀬川宿(富士市)に着陣する
→この時の兵力:20万
※ここで甲斐源氏も合流する
10/20 富士川の戦い
→頼朝、一気に京へ攻め上ろうとするも、千葉常胤・三浦義澄・上総広常らの進言で思い止まり、
東国の基礎固めを進めることとなる
・常陸の佐竹秀義(ひでよし)と敵対している
・上野の新田義重が去就を明らかにしない
・木曽義仲の勢力も上野に伸びようとしている
・謀略を好む後白河と、その周辺の陰湿な公卿に振り回される恐れ
※平氏方の敗因:総大将・維盛と参謀・忠清の対立、4千騎中数百騎が敵方に寝返ってしまった
→水鳥の羽音に驚いて敗走してしまうことに
(さらに、京への帰路で大半が逃亡してしまう)
※『吾妻鏡』は、頼朝を主役に仕立て上げているが、水鳥は使者の首を刎ねられて激怒した
甲斐源氏軍の動きに驚いて飛び立ったのであり、東方の黄瀬川に陣取っていた頼朝は
関係していないとも(高野賢彦)
※富士川の平氏惨敗により、世間に平氏失墜の印象を与えるとともに、
畿内近国で叛乱の連鎖反応が起きる
※この時、奥州藤原氏精兵17万騎がどう動くのかに注目が集まる(『玉葉』など)
※この時、千葉常胤、上総目代・藤原親政を、平家の方人(かたうど)として討っている
→相馬御厨の件の恨みか
※平知盛に仕えていた小笠原長清、頼朝挙兵の報を受け、母が病気と偽って京から急いで東下し、
頼朝のもとに馳せ参じて、以後頼朝の側近となる
cf.兄・秋山光朝は京に留まったため、その後冷遇されることとなる
※以後、甲斐源氏の実力を警戒した頼朝によって弾圧が加えられていく
10/21 源義経、頼朝のもとに参陣する
※黄瀬川ほとりの八幡神社境内(静岡県清水町)に頼朝・義経の対面石あり
※この時、佐藤嗣信・忠信兄弟(奥州信夫郡・藤原秀衡郎党)も義経に従っている
10/23 頼朝、相模国府(大磯町)で論功行賞を行う
→頼朝に従った者達の本領が安堵され、新恩が給与される
※東国武士が頼朝に期待したもの
→自分達の在地領主としての所領を保護し、争いが起きた際には
公正な裁決を下してくれる政権の樹立(貴族化は困る→富士川後の引き返しにつながる)
※この日の論功行賞により、武士の所領が国司からも荘園領主からも
侵害される危険がほとんどなくなる(東国武士が最も望んでいた状態)
※このような、所領の給与と忠誠義務によって結合した主従関係を「封建関係」と呼ぶ
(相模国府での論功行賞により、頼朝と御家人の間に封建関係が成立し、鎌倉幕府の骨組みとなる)
本領安堵と新恩給与をあわせて「御恩」といい、主人のために励むことを「奉公」という
cf.従来型の「名簿奉呈(みょうぶほうてい)」は一方的な奉仕を前提としており、給与は主人の恩恵として
与えられたため、官職給与や秘伝の伝授等に対する期待が裏切られることが少なくなかった
※この時、三浦義澄、三浦介を許される
→名実ともに三浦半島の主と認められる
10/27 頼朝勢、鎌倉を発って常陸に向かう
11/4 頼朝勢、常陸国府(現・茨城県石岡市)に着き、軍議を開く
※佐竹の縁者・上総介広常を使者として、佐竹一族を誘き出すこととする
→上総介広常、大矢橋(茨城県東茨城郡美野里(みのり)町)で佐竹忠義を騙し討ちにし、
この日の夕刻に直ちに金砂(かなさ)山城(茨城県久慈郡金砂郷(かなさごう)町)を攻める
※佐竹忠義、足利俊綱(藤原秀郷流)に協力を求めるも、
「同族の争い」を理由に拒否され、忠義も兵を返した(『源平闘○録』)
※『源平闘○録』:「坂東の平家物語」と称される
11/5 平維盛ら、京に戻る
→知度:わずか20騎
維盛:10騎にも満たず
→清盛激怒
11/6 佐竹義季、城を出て諸沢口(茨城県那珂郡山方町諸沢)の間道に広常勢を案内する
※「佐竹秀義の首を刎ねて帰順すれば、佐竹の領地を全て与える」との罠にはまったもの
※佐竹秀義、花園山(茨城県北茨城市花園)金剛王院満願寺の山伏勢力を頼る
※頼朝、これ以上攻めると奥州藤原氏との戦端を開くこととなるため、ここで佐竹追及を止める
11/7 頼朝、常陸国府(茨城県石岡市)で志太(しだ)義広・源行家(ともに義朝弟)と謁見する
※志太義広:常陸国志太郡八条院領の預所職で、同郡浮島(茨城県稲敷(いなしき)郡桜川(さくらがわ)村)
に居住して同郡に勢力を有していた
※源行家:新宮十郎ともいい、紀州熊野を拠点として以仁王の令旨を伝え歩いた工作者
※頼朝、佐竹領の奥七郡を没収して諸将に与える
・多珂・佐都東:宇佐美氏
・久慈東・西:二階堂氏
・佐都西:伊賀氏
・那珂東・西:大中臣氏
・世矢(瀬谷)・大窪・塩浜三郷:鹿島神宮に寄進
・相馬御厨:千葉常胤
・佐竹:内通した佐竹義季
11/10頃 頼朝、日和見を決め込んでいた常陸平氏の中で唯一佐竹攻めに参陣した
小栗御厨(茨城県新治郡)の小栗重成の館に立ち寄る
11/17 頼朝、鎌倉に凱旋する
※頼朝、和田義盛を侍所別当に任じる
※侍所:御家人統制機関
※その後、鎌倉の開発が進行していく
・海岸にあった鶴岡八幡宮を現在地の小林郷に移す
・若宮を盛大に建てる等、建築工事が次々と進む
・御家人達も次々と新居を構える
→辺境の地・鎌倉が東国一の都市に発展していく
11月末 近江源氏・山本義経、近江を「一統」し、琵琶湖の船を東岸に着けて、
北陸道からの運搬物を抑えてしまう
↓
平氏方、焦土作戦により徹底鎮圧を図るも、
かえって叛乱(ゲリラ的抵抗)が拡大する
→平氏勢力、分断され、衰退していく
↓
平氏、院や貴族の荘園からも武士を徴発するも、
かえって彼らの離反を促す結果となる
さらに、南都焼き討ちにより、従来兵士寄りだった寺院勢力までも
平氏を「法敵」と看做す
12/12 大倉邸(寝殿造)が完成し、移徒(わたまし)の儀が行われる
→頼朝、仮住まいの平広常邸から大倉御所に移る
→311人の御家人が出仕し、「鎌倉殿」(『吾妻鏡』)の鎌倉幕府の事実上の誕生をみる
※行列の先頭に和田義盛、頼朝の左右に加賀美長清・毛呂冠者季光、最後尾に畠山重忠
※幕府の御家人制度は惣領制に支えられていた
→土地には限りがあるため、やがて行き詰まることに
惣領:能力+母の身分
※この頃は女子をも含めた分割相続が原則
12/12 京で平重衡らが園城寺を焼き討ちする
※清盛が、以仁王を支援した園城寺を重衡らに攻めさせたもの
12/20 三浦義澄、新邸でおう飯を献じる
12/22 新田義重、鎌倉に出仕し、頼朝に従うことに
→上野国も支配下に入り、頼朝、関東をほぼ平定したことに
※里見氏:新田義俊(よしとし・義重子)、上野国碓氷郡里見郷に居住し、里見氏を称する(里見氏祖)
義俊から4代目の義秀(よしひで)は、竹林(群馬県太田市高林)に住み、里見竹林二郎と称し、
義秀の子孫が房総里見氏となる(通説)
※山名氏:新田義重子・義範、上野国緑野郡山名郷(高崎市)を領有して山名三郎を名乗る(山名氏祖)
頼朝に属して平家を追討し、頼朝に伊豆守に任じられる
義範から7代目の政氏と、その子・時氏の時に元弘の変が起き、政氏妻(時氏生母)が
上杉重房女であった姻戚関係から本家・新田氏に従わず足利氏に属して軍功を励む(小川)
暮頃 平重衡、興福寺・東大寺を焼き払う
※近江・大和・美濃等の源氏がこれら寺院勢力と組んで反平氏に動き出したため
※この頃、源行家も尾張に入り、三河・尾張・美濃の兵を集めて反平氏に動いていた
1181
1/1 頼朝、鶴岡八幡宮に参拝する
→三浦義澄・畠山重忠・大庭景義らが警固にあたる
1月 梶原景時、初めて頼朝に見参する
→頼朝に気に入られる(その後の驕慢につながる)
1月 平氏の地盤であった九州・四国にも叛乱が拡大し、本拠地・伊勢にも熊野武士が
侵攻・占拠し、さらに源行家も数万の兵を率いて尾張に侵攻する
1月 謀叛人(菊池隆直)追討の宣旨が下される
春頃 親鸞、叔父・日野範綱(のりつな)に伴われて慈円和尚(じえんかしょう)のもとで出家・得度し、
範宴(はんねん)と名乗る
2/1 頼朝の意向により、足利義兼と高子(北条政子妹)、および、
加賀美(小笠原)長清と上総介広常女の結婚式が挙行される
春頃 頼朝の亀の前に対する寵愛が激しくなる
閏2/4 平清盛死去
※以後、平氏は凋落
→京の公家・平氏は、藤原秀衡に期待するようになる(『玉葉』など)
3/10 墨俣(岐阜県安八(あんぱち)郡墨俣町)合戦
→平維盛ら、墨俣川で源行家を破る
※行家、信濃の木曽義仲のもとに逃れる
※以後、叛乱はしばらくの間小康状態に
(西日本を襲った大飢饉の影響もある)
※富士川~木曽義仲討伐までの間は、平氏との戦闘の担い手は
畿内近国の小領主と木曽義仲であった
(頼朝は鎌倉の基礎固めに集中しており、飢饉は頼朝を利する結果となった)
※頼朝、墨俣の敗報を聞いてひどく動揺し、軍神・鹿島神宮に祈願している
3/13・14条 『吾妻鏡』
→遠江の安田義定の使者・武藤五が鎌倉に到着する
橋本事件
※浅羽宗信(あさばむねのぶ)・相良三郎らが、
遠江における頼朝代官・安田義定の命に従わないことを訴えている
※「相良三郎」:『全訳吾妻鏡』では長頼とするが、『求麻外史』では頼景とする
→頼景が正しいか(池田)
※これ以降、『吾妻鏡』からは、壇ノ浦の戦いまで相良氏の動向が窺えない
→安田義定に属して浅羽・勝間田らとともに、平氏追討戦に従軍していたか(池田)
※安田義定、強固な遠江支配を背景に、次第に頼朝に属さない姿勢を強めていく
4月 頼朝、寝所の護衛をする者11人を選定する
→選考基準:弓矢の達人で異心のない者(畠山重忠外れる)
6/14 木曽義仲、兵3千を率いて越後の平氏方である城助茂(すけもち・資職(すけもと))勢1万と、
横田河原(長野市)で激突し、義仲が大勝する
※城の動きは平氏と連動している
※この時、藤原秀衡、城兄弟に援軍を派遣している
6月 頼朝、納涼で三浦海岸に遊ぶ
→御家人50余人は馬を降りて砂上に平伏したが、平広常は轡を緩めて会釈したのみ
→三浦義連が無礼をなじり、下馬を求めるも、広常はこれを拒否する
(一族・弟にも臣従を要求した頼朝の方針に合致しない)
8月上 頼朝、密使を京の後白河に送り、
「東国は源氏・西国は平氏」との条件で平氏との和睦を申し入れる
※後白河、頼朝の提案を平宗盛(清盛嫡子)に示すも、父の遺言に背くとして強く拒絶される
8/15 藤原秀衡が陸奥守に、城助職が越後守に任じられる
→頼朝・義仲包囲網(『吾妻鏡』)
※これ以降、頼朝は藤原秀衡を明確に敵と認識するようになる
※在京の佐竹隆義も常陸介に任じられている
※陸奥の全支配権を握る最高ポストに奥州人が任じられたことで、京の公家が憤ったとされる
秋頃 平貞能、菊池隆直討伐と兵糧米徴収を任務として九州に下向
12月 北条政子、大病を患う
12/19 この日以後、藤原定家の『明月記』が1188年まで欠ける
※青年期に見聞した源平合戦が、その後の人生観や歌に大いに影響を及ぼしたか
この年、武田信義、頼朝から疑いをかけられ、「子々孫々に至るまで謀叛の心を持たない」
との起請文を提出する
この年、飢饉で京が餓死者で溢れる
1182
3/9 政子の着帯の儀式
→着帯の帯は千葉常胤の妻が作り、頼朝自身が帯を結ぶ
(1人目は世を忍んでの仲、2人目は東国一の武将夫人としての出産であり、頼朝一同大喜びしたという)
↓
鶴岡八幡宮から由比ガ浜までの道を一直線に直して参詣道路を造り、安産を祈願する
(頼朝自ら指示を出して、北条時政以下諸将が土石を運んだとされる)
↓
三浦義澄、政子妊娠の報を聞き、「罪人」(頼朝と娘の仲を裂き、その間の子供を殺し、さらに
頼朝も殺害しようとした)として義澄に預けられていた伊東祐親の赦免を願い出る
→頼朝、恩赦を与えるも、祐親は前非を恥じて自害する
↓
頼朝、伊東館から逃がしてくれた子の祐清に褒美を与えようとする
→祐清も父を追って自害する
4月 菊池隆直、降伏
6/1 頼朝、亀の前を飯島の伏見広綱邸に住まわせる
→政子出産の間も通い続ける
6月 平貞能、京に凱旋
7/14 新田義重、頼朝の勘気を買い、新田荘に戻る
新田義重――― ―――――
↓ ↓ ↓
女―――義平 頼朝
(未亡人) (死去)
→頼朝、新田義重女を誘うも本人に拒絶され、さらに義重も政子への聞こえを憚って
帥(そう)六郎に嫁がせてしまった
8/11 政子、産気づく
8/12 政子、頼家を出産する
10/17 政子・頼家、比企谷の産所から本宅に戻る
→佐々木兄弟が若君の輿を担ぐ
小山兄弟が調度や剣を持つ
比企能員(比企尼の甥・養子)が供え物を捧げる
↓
北条時政の後妻・牧の方、亀の前の件を政子に告げ口する
↓
政子、大いに怒り(夫婦喧嘩勃発)、牧宗親(むねちか)に命じて伏見広綱邸を破壊し、
亀の前に恥辱を与える
↓
伏見広綱、亀の前を連れて、あぶ(金へんに登)摺(あぶずり・逗子の南)の
三浦一族・大多和義久(おおたわよしひさ)邸に逃れる
↓
2日後、頼朝、あぶ摺を訪れ、平謝りの牧宗親を許さず、その髻(もとどり)を切ってしまう
→北条時政、これを聞き、伊豆へ引揚げてしまう
12/10 頼朝、怖がって渋る亀の前を小中太光家邸に戻す
→寵愛、日毎に激しくなる
12/16 北条政子、亀の前に住居を提供した伏見広綱を遠江国に流す
1183
2月 平通盛勢、木曽義仲討伐のため、北陸道を進む
閏2月 志田義広、北関東の八条院系の武士を動員して叛乱を起こし、鎌倉に進撃する
※志田義広、まず志田庄(茨城県稲敷郡)・村田庄(茨城県筑波郡)・下妻庄(茨城県下妻市)を領する
下妻広幹(しもづまひろもと)を誘う
→次いで、秀郷流足利忠綱(下野足利庄)を誘い、忠綱も加わる
さらに、小山朝政(下野国)も誘う
→朝政、一族と協議の末、まず味方すると偽って義広を誘き出した上で急襲することに
閏2/20 頼朝のもとに、志田義広謀叛の報が届く
閏2/20 野木宮(のぎのみや)合戦(~23日)
→小山朝政が大勝する
※頼朝方:小山朝政・下河辺行平・八田知家・小栗重成・下妻清氏・小野寺道綱・宇都宮信房・
忠綱以外の藤姓足利一族ら
※志田義広、木曽義仲のもとに逃れる
※この頃、頼朝勢の多くが駿河・遠江にあり、鎌倉の守りが手薄になっていた
※義広方に与した常陸平氏は所領の多くを奪われ、
代わりに下野の結城・八田がこの地に勢力を伸張する
※足利俊綱、志田義広に与して討死している
※『吾妻鏡』は、野木宮合戦を1181年のこととする
閏2/21 頼朝、この日から7日間、鶴岡八幡宮に参詣する
閏2/28 長沼宗政一族、兄・朝政の名代として
野木宮合戦に参戦した武士を従えて鎌倉に参上する
※頼朝、義広方の所領を没収し、諸将に与える
下妻広幹領 村田下庄:小山朝政
志田庄:八田知家 下野の小山・八田が常陸西部に進出したことに
南郡:下河辺政義
※小山庄南西の寒河郡が寒河尼に与えられ、後に朝光に与えられている
木曽義仲、頼朝との関係を円満にするため、長子・義高(よしたか)を人質として送る
↓
頼朝、これを許し、長女・大姫を義高の許嫁とする
→大姫の不幸の始まり
※海野小太郎幸氏(ゆきうじ 海野氏嫡流)、義高の従者として鎌倉に赴き、義高が鎌倉を脱出した際は、
その身代わりとして義高の寝所に入っている
→一旦捕えられるが、後に赦され、弓の名人として鎌倉御家人の中で重きをなす
※海野氏:戦国初期まで海野平(うんのだいら 小県郡東部町)を中心に勢力を保っていたが、1541年、
武田信虎・村上義清に挟撃され上州へ没落する
※海野氏庶流に真田氏あり
4月中 平惟盛を総大将とする10万の大軍、北陸道に向けて出陣する
5月中 木曽義仲、倶利伽羅峠(くりからとうげ・砺波山)で平氏軍3万に大勝する
→破竹の勢いで進撃する
6月上 平惟盛軍、京に敗走する
7/25 平氏、都落ち
閏7/28 源義仲、10万の大軍を率いて入京
→義仲、糧食・物資の補給に苦しみ、配下の統制を失って京の人望を失っていく
・義仲軍、飢饉の影響もあり、略奪・暴行をせざるを得なくなる→失望
・院に恭順の意を示し、東国の地盤を固める頼朝の堅実性
平氏が横領した寺社・貴族の所領を元の持ち主に返還することを約した書状を京に送り
後白河・公卿の信望を勝ち取る→期待(京では頼朝の噂でもちきり)
8月 平氏、一旦九州に逃れ、大宰府で新政権を樹立しようとする
後鳥羽、平氏に「朝敵」の烙印を押す
8月上 木曽義仲、従五位下越後守に任じられ、平氏追討を命じられる
※義仲、さらに伊予守にも任じられている
8月中 院近臣・中原泰貞(やすさだ)が鎌倉に下向し、院宣を伝える
9月 後白河、木曽義仲に平氏追討を命じる
10月 頼朝、平治の乱の際に奪われた右兵衛佐の官を復される
→「罪人」でも「謀反人」でもなくなる
10月 「十月宣旨」が発布され、平氏・頼朝・義仲・奥州藤原氏の四者体制となる
→頼朝の東国政権が国家に公認される
※頼朝、背後の藤原秀衡・佐竹隆義の存在により上洛できず
※頼朝、東国沙汰権を得て以降、甲斐源氏の力を削ぎ始める
閏10月中 木曽義仲、備中水島(岡山県倉敷市)で、
平重衡・通盛(みちもり)に大敗を喫し、京に戻る
→義仲没落の始まり
※源義清、討死
11月 梶原景時書状の中に、「周防大内介」との文言が見られる
平氏、大宰府を追われ、屋島に逃れる
11/19 木曽義仲、院の御所・法住寺殿を焼いて法皇を幽閉し、
摂政・近衛基通以下、院近臣の官職を解く
→院庁下文(いんのちょうくだしぶみ)と征夷大将軍の地位を強引に手に入れる
→院の使者が義経のもとに派遣され、再び頼朝の上京を命じる
→頼朝、義仲討伐を決意し、範頼・義経を派遣させる
※この時、藤原秀衡、頼朝追討を命じられる(『吉記』寿永二年12月15日)
12月 上総介広常、幕府殿中で梶原景時と双六中に景時に討たれる
→「京の朝廷にばかり気を遣う頼朝に対する不満を洩らしたところ、
頼朝の耳に届き怒りに触れた」(『愚管抄』)
※上総一宮に納められた願文により、謀叛の疑いは冤罪であったことが判明する
→頼朝、捕えていた弟・天羽庄司直胤・相馬九郎常清を許し、
連座として没収した所領も旧主に返還する
→上総介一族、12c以降無力化し、旧領の多くは和田義盛と千葉常胤に継承される
(広常の死は千葉氏成長のきっかけ)
※頼朝、幕府確立過程で純粋な在地生え抜きの東国武士団の代表者を粛清していき、
他氏に源氏譜代の御家人という正統性を付与して幕府体制に編成した
ex:秀郷流足利俊綱を粛清して小山氏を用いる
12月末 頼朝、東国の年貢運上の名目で、範頼・義経に兵を与えて上洛させる
→真の狙いは義仲討伐
1184
前年暮れからこの年の初めまでの間に、大江広元が鎌倉に下向し、
公文所別当として活動を始める
年初頃 平氏、旧都・福原に入って一の谷に城郭を築き始める
→四国・紀州から数万の兵を集めて近く入京する気配を見せる
1月 木曽義仲、後白河に強いて征夷大将軍に任じられ、「旭将軍」と称する
→10日ほどで討死することに
※この頃、後白河、頼朝のもとに中原泰?を派遣し、上洛を促している
→頼朝、①朝廷は神社仏閣に勧賞(かんじょう)を行い、寺領を本所に戻す
②貴族の所領の本所への返還
③平氏方の者の断罪免除を申し入れる
→後白河、直ちに宣旨を下し、頼朝の罪を赦し、
東海・東山二道の荘園・国領の年貢の運上とその処置を頼朝に一任する
1/20 宇治川の戦いで源範頼・義経らが義仲を破る
→義仲、粟津(あわづ)ヶ原(滋賀県大津市)で討死
※河越重頼・重房・佐々木高綱・畠山重忠・渋谷重国・梶原景季らが従軍
※宇治川で、佐々木高綱と梶原景季(景時子)が先陣争いを演じる
※義仲寺(ぎちゅうじ・大津市馬場町)に義仲墓あり
※義仲死後、越後奥山庄(城氏旧領)は和田義茂(義盛弟)が地頭職を与えられる
城義茂―――
↓
重茂―――
↓
時茂(ときもち)――――
↓
?―――
↓
――――――――――
↓ ↓ ↓
茂連(もちつら) 茂長(もちなが) 義基(よしもと)
中条氏 黒川氏 関沢(せきざわ)氏
(新潟県胎内市) (胎内市) (新発田市)
1/29 源氏方、平氏を討つため京を発つ
2/5 源氏方、摂津に集結する
→この時、7日午前6時から合戦を始めることに決する
2/5 夜、三草山の西の平氏方を一蹴する
→義経、軍を二手に分ける
本隊:安田義定が率い、一の谷に進む
義経:7日早朝鵯越に進む『吾妻鏡』
cf.土肥実平率いる7千:一の谷の西へ進む
義経率いる3千 (『平家物語』)
2/7 一の谷の合戦
→大手大将:範頼
小山朝政・梶原景時・畠山重忠ら総勢5万6千
搦手大将:義経
安田義定(甲斐源氏)・土肥実平ら総勢2万余
平通盛:佐々木俊綱に討たれる(『吾妻鏡』)
平忠度(一の谷西手大将):猪俣党・岡部六弥太忠純に討たれる
平敦盛:熊谷直実に討たれる
平盛俊(山の手侍大将):猪俣党・小平六則綱に討たれる
※『平家物語』では畠山重忠は搦手に属している
→重忠、梶原景時の驕慢と範頼の大将ぶりに不満で義経隊に移ってきたと『源平盛衰記』は説明する
※畠山重忠が馬を担いで崖を降りたとの伝説も(『源平盛衰記』のみ見える)
「三草山の後、畠山重忠は義経と別れて安田義定の指揮下に入り、一の谷の西の手を攻めたので
あって、別働隊には属していなかった。したがって、重忠の馬を背負って崖を降りたとの伝説も
史実ではない」(貫達人氏)
※鵯越の坂落とし
↓
大勝した範頼・義経、京に凱旋する
梶原景時、生け捕った平重衡を鎌倉に送る
※範頼は鎌倉に戻り、義経は京に残って京の警備にあたることとなる
※義経、後白河から検非違使・左衛門少尉(さえもんのしょうじょう)・従五位下・大夫判官(たいふほうがん)に
任じられ、院への昇殿を許される
→直接朝廷から官位を受けることを厳禁していた頼朝の怒りを買うことに
※頼朝は、京とは異なる武家政治を目指しており、また、義経の背後の藤原秀衡が気がかりだった
3月 朝廷が頼朝の平家没官領支配を承認
→「関東御領」と呼ばれる将軍直轄領荘園群の原型が成立する
3月末 頼朝、正四位下に叙せられる
4/26 木曽義高、堀親家(ちかいえ)の郎従に入間河原(いるまがわら)で斬られる
→大姫、悲しみのため飲水を断ってしまう
この後、大姫を立ち直らせることが政子の課題となる
(結局は大姫は廃人のような生涯を終える)
北条政子、侍女・千手(せんじゅ)の前を平重衡(奈良の寺院焼討の罪で処刑される)の傍におく
5/16 平頼盛、鎌倉に着く(『平家物語』)
→頼朝の歓待を受ける
頼朝、平治の乱の後、自分の助命を願い出た池禅尼の子・平頼盛の所領を安堵する
6月 関東知行国成立
6月 頼朝の奏請で、範頼が三河守に、源広綱が駿河守に、
源義信が武蔵守に任じられる
※この時、義経も官途の推挙を望んだが、頼朝はこれを許さず
6/16 頼朝、一条忠頼(武田信義次男)を誅殺する
※鎌倉の宴席に誘い、天野遠景に斬殺させる
→甲斐源氏一門の一連の誅殺の始まり
7月 佐々木秀義、伊賀の平氏と交戦中に流れ矢に当たって討死
(平氏残党が伊賀から近江に攻め入っていた)
8/8 源範頼、平氏追討使として鎌倉を出発する
→頼朝、義経が自分の推挙によらずに左衛門少尉に任じられ検非違使に
補せられたことを怒り、義経を平氏追討使から外す
※北条義時・足利義兼・三浦義澄・八田知家・小山朝政・長沼宗政・結城朝光らが従軍している
※千葉常胤も従軍していたが、後に鎌倉に引き返す(理由は不明)
8/28 大江広元、新造公文所門立に参仕する
8月末 範頼軍、京に入り、平氏追討の官符を受ける
9/1 範頼軍、京を発ち、山陽道を西に向かい九州を目指す
10月上 範頼軍、安芸に着く
10月 公文所・問注所が設置される
※公文所:一般政務(後に「政所」)
初代長官は大江広元
※問注所:訴訟事務
初代長官は三善康信
10/6 公文所吉書始(きっしょはじめ・仕事始め)
→吉書始の後の酒宴を千葉常胤が運営する
公文所・問注所 VS 御家人武士
↑
京出身の貴族知識人吏僚
→千葉常胤が、構造的対立を抱える両者の仲を上手くとりもつために鎌倉に一旦帰ったか(福田豊彦氏)
12月 範頼軍、長門に入る
※食糧難に苦しみ、全軍の士気が衰える
→頼朝、義経を起用せざるを得なくなったとも
この年、武田信義、子・忠頼に反逆の心ありとされ、頼朝の勘気を受ける
→この時、駿河守護を解任されたか
1185
1月 頼朝、政子とともに栗浜(久里浜)明神に参拝祈願する
1月末 周防に留まっていた範頼軍(平氏・瀬戸内海包囲作戦の一環)、反平氏の豊後・臼木惟隆・
緒方惟栄兄弟から提供された舟に乗り、九州に渡る(平氏包囲網一応の完成をみる)
→京に留まっていた義経を起用して屋島を攻めることに
※中国・九州は平氏の地盤で、糧食の確保に苦しんでいた
→千葉常胤、帰国を望む将兵を説得して周防に留まらせ続けた
2/18 屋島(香川県高松市)の戦い
※義経、摂津国渡辺(大阪市)から阿波勝浦に渡り、陸路、讃岐・屋島の平氏陣営の背後を襲い、
平氏勢を海に追う
→屋島を追われた平氏勢、彦島(山口県下関市)に張陣する
※源義経配下の佐藤継信が義経の身代わりとなって討死
※那須与一の扇の的の逸話あり
※那須与一:下野国那須郡地頭・那須氏惣領
2/19 頼朝、鎌倉に南御堂を建て始める
源範頼、豊後に上陸し、これを迎え撃った原田種直を破り、大宰府に入る
3/24 壇ノ浦(山口県下関市)の合戦
→包囲網により逃げ場を失い、平氏滅亡
二位尼(時子)、8歳の孫・安徳天皇と、三種の神器を抱いて入水(鏡のみ源氏が確保)
建礼門院徳子、入水するも源氏の手で救い上げられる。
義経の八艘飛びの逸話あり
範頼、8月まで九州に留まり、在地武士の組織化等に尽力する
※建礼門院、長楽寺で剃髪して大原に赴く
4月 義経、京に凱旋する
4/11 南御堂の柱立て
→この日、壇ノ浦の勝報が鎌倉に届く
4月中 御家人が鎌倉に帰還し始める
4/15 頼朝、自身の推挙によらずに任官した23人の、墨俣以東への入国を禁じて叱る
ex:佐藤忠信・後藤基清・梶原朝景・平山季重・八田知家・小山朝政ら
→大部分はすぐに許されたが、義経は許されなかった
4/21 梶原景時、義経を「軍事指揮系統に背く軽挙を重ねる」と批判する書状を頼朝に送る
※景時、この日の時点で「侍所所司」(御家人統制担当者)
4/27 大江広元、頼朝の公卿昇進に伴い、政所別当となる
→「幕府に持ち込まれる訴訟は全て頼朝の裁定で処理される」との建前の下、実際には
広元主導の政所が幕府裁定のかなりを担っていた
5/1 宮菊(義仲妹)、北条政子の招きで鎌倉に着く
→頼朝、政子の勧めで、宮菊に美濃国遠山庄内の一村を与える
5月 源範頼、院宣による追討使として、九州地方の鎮定と、平氏方の所領没収にあたる
5月 義経、既に頼朝の命により河越重頼女を娶っていたにもかかわらず、
平時忠女を娶る
5/4 梶原景時の讒言に対する頼朝の返書が景時に届く
→頼朝、景時を正しいと判断し、義経の命に従わないよう命じる
5/7 源義経、大江広元を通じて(広元の配慮に期待)、
異心なき旨を誓約する起請文を頼朝に献じる
5/15 源義経、一の谷で生け捕った平宗盛・清宗父子を伴い、
直接弁明するために鎌倉に向かう
5/16 大江広元、平宗盛・清宗父子に膳を進めてもてなす(義経は鎌倉入りを許されず)
5/24 義経、腰越・満福(まんぷく)寺(鎌倉市腰越)に入り、腰越状を送る
5/24 大江広元、義経より腰越状を受け取る
※頼朝、義経を許さず
6/7 義経、平宗盛(むねもり)・重衡(しげひら)らとともに鎌倉を発ち、京に戻る
6/29 大江広元、因幡守を辞す
7月 源頼朝、大宰府に中原久経・近藤国平を派遣
8月 頼朝の推挙により、
・加賀美遠光:信濃守
・山名義範:伊豆守
・大内惟義:相模守
・安田義資:越後守
・足利義兼:上総介 に任じられる
→義経の伊予守とあわせて「平氏追討源氏受領六人」と呼ばれる
※地方武士が6人も国守に任じられることは、従来ありえないことであった
9/17 頼朝、刺客・土佐房昌俊を送り、京都六条室町の義経屋敷を襲わせる
※義経、昌俊を撃退する
9/18 義経、後白河に迫り、頼朝追討の宣旨を得る
(行家・義経に対して、頼朝追討の宣旨が下される)
→頼朝、逆徒の申請のまま下された院宣がかなり気になった様子
「なぜ自分達の勲功を捨ててしまうのか」と嘆いたという
※頼朝・義経の対立が決定的となる
※これをきっかけに、以後頼朝は公然と後白河に政治的要求を突きつけ始める
10/24 南御堂勝長寿院の盛大な開堂供養式(父・義朝の供養)
→鎌倉中の御家人が参列する
※畠山重忠が随兵筆頭になっている
→頼朝、供養式が終わると、「明日25日義経討伐のため上洛する」と触れる
先遣隊はこの日の夜のうちに鎌倉を発つ
10/29 頼朝、午前10時頃、上洛のため出陣する
→先陣:土肥実平
後陣:千葉常胤
→行家・義経が四国・九州に向けて船出したまま行方不明になったと聞き、
黄瀬川から鎌倉に引き返す
※義経らの船が摂津国・大物浦(だいもののうら・兵庫県尼崎市)で沈んだとの報告を受けた
※この後、頼朝、義経の縁者(舅)であるとの理由により、河越重頼の所領を没収する
→この時、重頼、殺害されたか
※義経、この後、吉野山~多武峰(とうのみね)~十津川(とつかわ)~伊勢~京都などに潜伏した後、
平泉に落ちのびることとなる
11/1 頼朝、黄瀬川駅(静岡県駿東(すんとう)郡清水町(しみずちょう))に進み、ここに駐屯する
11月上 義経、京を脱出する
11月 頼朝、北条時政に兵1千を与えて上洛させる
→後白河に対する政治的攻勢
①後白河に、守護・地頭の設置を承認させる(武家政権へ)
②義経追討を名目として、日本全国支配を目指す
③義経派公卿の追放と、頼朝派公卿の抜擢
※鎌倉時代以降、律令制における国司の権能は守護に吸収されて有名無実となっていく
※後醍醐は、国司の権能を復活させて守護と併置し、
公家を国司に任じて行政を任せ、武士を守護に任じて軍事・警察部門を任せようとした
11/11 院、慌てて行家・義経追討の院宣を出す
11/12 大江広元、頼朝に対して守護・地頭の建議を行う
※守護:1国1人の幕府の地方官・謀叛人逮捕の権限あり
※地頭:年貢徴収・治安維持にあたり、守護の監督を受ける
※両者の上位としての、日本国総追捕使・総地頭
→頼朝
※王朝国家の領主権(職(しき)体制)を実質的に奪い取る制度
11/15 法皇近臣・大蔵卿泰経(やすつね)を鎌倉に送り、院宣を下した経緯を弁解させる
→「行家・義経に脅されてやむなく出したもので、法皇の本心ではない」とする
12/6 頼朝、朝廷の人事を後白河に要求する
※在京中の北条時政から義経派公卿の報告を受けている
12月 源頼朝、日本国の総追捕使・総地頭に任命され、全国の軍事警察権を握るとともに、
幕府権力が制度的に公認される
この年、惟宗忠久、伊勢国須可荘波出御厨の地頭に補任される
※惟宗氏:近衛家の家司(けいし)
※この年、惟宗忠久、島津荘下司職(げすしき)に補任される(芳)
この年、頼朝の挙兵の際に馳せ参じて軍功をあげた宇多源氏の佐々木秀義、
近江国守護に任じられて近江に戻り、佐々木氏を称する
1186
1月 鶴岡八幡宮参拝
※この時、五位の千葉胤頼が、六位の父・常胤より上席につく(『吾妻鏡』)
→父権社会にあって、中央から授かった官位が地方武士の序列に反映していたことを示す
1/9 九条兼実(親幕派)、内覧となる
1月 頼朝、政子とともに、甘縄(あまなわ)神明宮に参拝する
→前年暮れの土民の変死や僧の怪異が崇徳院の祟りとする夢を
政子の侍女が見たためとされる
1月 北条政子、一条能保(よしやす)夫婦(頼朝の妹夫婦)の帰京のため、
餞別の準備に追われる
→この時、「静を鎌倉に送るように」と京の父・時政に伝言する
2月 北条政子、一条能保夫人と息女に餞別として長絹(ちょうけん)を贈る
2月 頼朝の妾(常陸介時長(ときなが)女)が出産し、政子怒る
2/7 大江広元、頼朝より義経対策の恩賞として、肥後国山本荘の地頭職を与えられる
※幕府からの所領給与の初見
※肥後国山本荘:熊本県鹿本郡植木町(河合)
3/1 妊娠中の静御前、母・磯(いその)禅師に連れられて鎌倉に着き、安達新